背中越しの鼓動を知る日




「ナマエ」
「…っ、はい」
「その剣を取れ」


テリーに言われるまま、ナマエは青年のものであろう、床に転がった剣を拾うべくふらつく足で立ち上がろうとし――…恐怖と混乱で立ち上がれず、這うようにして剣の元へ進んだ。腕を伸ばし、ナマエは剣先に指を伸ばす。肌を切らぬよう細心の注意を払い、自分の元へ引き寄せる。

身体の上半身だけ起こしたナマエは、掴んだ剣を胸に抱きテリーの方を振り返る。次はどうすればいいのか、ナマエに考える余裕はない。ナマエと同じように動揺していたものの、それでもテリーは剣を打ち合う間に冷静さをいくらか取り戻していたようだった。剣を突きつけられた青年は呆然と、身動きの取れない状態でナマエの動きを、テリーの言うことに素直に従うナマエの姿を眺めるだけ。ならば、やるべきことは一つだろう。


「足、悪いんだよな」
「……ええ」
「宿の入り口まで、行けるか」
「…行くわ」
「よし」


震えた声でそれでも行く、と目を見て言ったナマエにテリーの口元が緩む。ふらつきながらも青年の剣を支えにナマエは立ち上がり、一歩、一歩と部屋の扉に向かって歩き出す。「っ、待ってくれ!君は、――…」「動くな」ナマエに駆け寄ろうとした青年を、テリーが剣先一つで制した。青年はその目に絶望を宿し、ナマエの後ろ姿を縋るように見つめている。その光景を視界の隅で捉えたとき、ナマエの心の中に巣食っていた恐怖心は確かに薄れていったのだ。

――やはりテリーは私を、暗い闇の底から導いてくれる光だわ。

ナマエのゆっくりとした足音だけが、部屋の中に響いていた。開いている扉に体の触れる音がし、階段を一段、一段、踏み外さぬよう、確かめるように慎重な足音が下りていく。音がやがて遠ざかり、聞こえなくなったところでテリーは青年に突きつけていた剣を下ろした。ナマエを追うために部屋の外へ走り出そうとした青年の肩を掴み、力任せに押し返す。ふらついた青年の瞳には、テリーへの敵意しか見られない。どうしてこんなことになったのか、ナマエに聞いて喋るだろうかと考えながらテリーは雷鳴の剣を振り翳した。


「人魚みたいな生き物に惑わされても、幸せにはなれないぜ」
「…貴様、」
「悪いな」


振り翳した剣から雷が迸り、青年の体を貫いた。耐えきれず床に倒れ伏した青年は、しばらく起き上がる事すら叶わないのだろう。それでもうめき声と共に聞こえてきた声はナマエを求めるもので、床との隙間から微かに覗く瞳は憎悪の炎で燃えている。恨まれるのであろうということは直ぐに察しがついた。同時にこの手の輩に、"アドバイス"が通じないことも。
容赦をしなかったことに多少の罪悪感を覚えながらもテリーは剣を収め、踵を返して部屋を出た。微かに呼吸の音が聞こえ、テリーは早足で階段へ向かう。見下ろせば階段の下にはうずくまる影が一つ。…ナマエだ。

足も精神も限界だったのか、ナマエの着ているテリーの予備の服の隙間…――赤く腫れあがった脚には鱗がちらついていた。階段を下りてくるテリーを見上げ、親に叱られることを理解し怯える子供のような目でナマエはテリーを見上げている。目を細めたテリーは階段の最後の一段を降り、ナマエの目の前に体を屈ませた。どちらが目立たないかと言えば、やはり抱き上げるより背負う方だろうか。


「…っ、テリー、ごめんなさ…」
「後で話せ。とにかく、この国を出るぞ」
「でも、外に」
「いいから乗れ」
「……乗る?」
「お前、……まあ、人魚ならしょうがないか」
「…ごめんなさい」
「別にこれは謝ることじゃない。…後ろから俺の首に手を回せ」
「へ、」
「早くしろ」


おずおずとテリーの首に、ナマエの腕が回される。「…こう?」「ああ、離すなよ」後ろに手を伸ばしたテリーは、熱を孕んだナマエの脚を絡め取り、ゆっくりと立ち上がった。小さく戸惑いの声を上げるナマエを無視し、テリーはゆっくりと歩き出した。ロビーのカウンターには先ほどまで存在の断片すら残していなかった老婆が静かに佇んでいる。


「お客様、お帰りで?」
「…ああ。出来ることなら、見張りのいないところから帰りたい」
「ならば平等に、客の願いを叶えないとだねえ」


フロアとカウンターを仕切る簡易的な扉が開いた。テリーは迷いなくカウンターの中に入り、老婆と向かい合う。裏口には誰もいないよ、と老婆がカウンターの奥を指し示して笑った。「…案内しよう」「助かる」礼を言い、テリーはゆるりと動き出した宿の主人の後に続く。
カウンターの奥は老婆の個人的な部屋になっているようだった。戸惑うナマエの心を置き去りに、老婆とテリーは周囲を見向きもせずただ宿の裏口へと歩く。やがて小さな扉の前に辿り着いた老婆は、どこからともなく取り出した鍵でその扉を開いた。


「では、またのお越しを」
「ああ。…機会があればな」


頭を下げた老婆を振り返ることなく、テリーはナマエを背負ったまま歩き出す。


20160519