願いを知る日




「君がこの宿屋に泊まっていると、僕の従者が教えてくれたんだ」
「…そう、ですの」
「昨日はあの後、明日が来るのを待ちきれなくてね。眠ることすら出来ないかと思ったら、起きても君にすぐ会えるとは限らない。どうしても君のことばかりを考えてしまって…つい、誰にも言わずここに来てしまった」
「私、…今朝は体調が優れなくて」
「何?それは大変だ。いや、こんな場所だから体調を崩したんじゃないか?僕の屋敷においで、美しい人。君のためにこの国で一番の医者を呼ぼう」
「いえ、大丈夫です。一人にしてくだされば、それで」
「それは出来ない相談だ。僕は君が心配で、いてもたってもいられない」


苦し気に顔を歪める青年の顔は、演技のようには思えない。

それでもナマエの警戒心が解けることはない。出会ったばかりの異種族の異性に、そこまで心配されるのは、世間一般で言う恋だの愛だのを何も知らないナマエにすら、おかしいのではと思わせるのだ。青年はナマエがそのようなことを考えているとは、夢にも思わないのだが。

どうにかして青年に、この部屋から出ていって貰わなければならない。そのためにはどうするべきか考え込むナマエの横顔は不安で白く、青年に『体調が優れない』という言葉を信じさせるに十分だった。青年は一瞬、悪いことをしたかと考える。が、しかし体調が悪ければ約束の場所に、ナマエが現れなかった可能性を考え、やはり来て良かったと思う。

青年はナマエの横顔を見つめた。アークボルトという大国の、上流階級に生まれた青年はこれまで、美しいものを多々見てきたつもりだった。宝石、衣類、建築物、生き物、――…人間。持ち込まれる数々のお見合い写真の中の一枚、美しく着飾った貴婦人達の中の一人を選び、伴侶とし自分を支える支柱にする。その支柱の存在により青年は、培ってきた知識と目と腕、それら全てを才として自分のものにし家の名を継ぎ、よりアークボルトという国に尽くす道を進むのだろうと思っていた。
ところが青年はどんなに多くの、美しく着飾った女性を見ても心から惹かれることはなかった。そのせいで伴侶の姿を明確に想像できなかったのは、青年の心のどこかで引っ掛かっていたのだ。


――小池のほとりで、その後ろ姿を見るまでは。


ナマエの背中を見た瞬間に青年は、夜がはじける感覚を覚えた。月の光が空に飛び散り、宵闇を明るい光で包み込む。水に濡れた髪が姿を現した太陽の光に煌めき、青年の思考の全てを奪い去ったあとはもう、初めて覚える感覚に支配される脳の言うまま、勢いのまま。恋情は人を変えるとはよく言ったもの。自らの力で望むものを手に入れるために、青年は突き進むだけだった。駆け引きなど、彼は知らない。初めての事態に戸惑っているのは、ナマエだけでなく青年も同じだ。青年もこれほどまでに――…人間とも分からない女を、手元に留めておきたくなるとは思ってもいなかったのだ。まだ出会って丸一日も経っていないのに青年は、顔色の悪いナマエの横顔を見ているだけで心臓が軋む。


――こんなに狭い部屋ではなく、もっと広く美しく清潔で完璧な空間に、彼女を、


「水が足りないのかい?」
「…っ、それは」
「人間の飲み水では、君は生きられないのか」
「……海の生き物としての姿を、完全に手放す覚悟がないのです」
「迷う君もとても魅力的だ。――…僕は君の望むものを、全て君に与えよう」
「…遠慮します」
「なぜだい?」


青年の本当に不思議そうな問いかけに、ナマエは深く息を吸い込む。


「私の主人は私に、自分のことは自分で管理しろと言いました」
「…つまり?」
「人間の脚が上手く想像出来なかった時も、彼はアドバイスなんてくれなかった」
「………」
「けれど彼は自分の歩く姿を見るなとは、…一言も言わなかったわ。そして私が彼の歩き方を、足の動かし方を見て自分の"足"を創り出した時…初めて、私は褒めてもらえた」
「……君は、既に」
「私は自分の願いを、望みを、自分の手で叶えてそして、…―テリーに褒めて欲しいんだわ。だから、あなたの望むような――っ、きゃあ!」


青年の目を見つめ、自分の意思を口に出したナマエの言葉は、最後まで続かなかった。

窓辺に腰掛けていたナマエに詰め寄った青年は、ナマエの手首を掴み捻り上げる。思わず声を上げたナマエは青年の瞳の色に息を呑んだ。穏やかな色は消え去り、激情だけが燃え盛るその視線にナマエの、恐怖心が膨れ上がる。
青年は掴んだナマエの手首を思い切り、引いた。痛みに声を上げる暇もないまま、ナマエは窓辺から床に引き摺り下ろされる。思わず床に触れた足が痛みに驚き、思考は状況に追いつかない。待って、待って、お願い、どうか、嫌、


「…君は、既に他の男のものなのか?」
「な、にを」
「だが僕は君に心を奪われ、どうすることも出来ない」
「………っ、離して!」
「どうしたら君を手に入れられる?どうしたら、どうすれば……ああ、」


――ここから攫って、閉じ込めてしまおうか。


青年の瞳に穏やかな光が戻り、出会った時と同じ優しい、甘い微笑がナマエの目の前に差し出される。孕まれる毒は触れるだけで、死んでしまいそうなほどの劇薬だろう。
恐怖と痛みと混乱で身動きの取れないナマエを見つめ、青年は満足気な笑みを浮かべた。そのまま青年はナマエの耳元に口を寄せる。愛の言葉を囁くために、ナマエの心を揺らすために。青年は頭の中で、ゆっくりと、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「…誰だ?」


――第三者の声に青年は、思考を止めざるを得なかった。青年の不快感を煽ったのは青年の下に組み敷かれた、青年の愛おしき人が目を見開き、第三者の名を小さく呼んだことだった。


20160518