光の存在を知る日




――陸の上で、ナマエが一人の朝を迎えたのは初めてだった。

ベッドの上で体を起こしたナマエは、腕を伸ばしベッドサイドのテーブルに移動させた、水差しをぼやけた視界で認識し、掴む。はしたないと思いながらもナマエはそれに直接口を付けた。体の中に流れ込む水は海の底で味わう水と違い、乾いた喉を完全に潤すことは出来ないが、それでも多少は霞がかかったような頭の中が、はっきりとするような感覚があった。部屋の中で一人、ナマエはベッドから抜け出せない。心地良いからというわけではなく、柔らかな毛布が初めてだからというわけではないのだ。――安心できる、気配がない。ナマエは一人でいることが酷く、不安だった。

光が無ければ生き物は、導を失い道に迷う。ナマエは自分にとってのテリーが、"光"であることを知った。テリーがいなければ何をすればいいのか、どこに行けばいいのか、ナマエには何一つ分からない。自分で判断する術を、ナマエはどこにも持っていない。その術を知らされることすらなく、自分は生きてきたのだとナマエは知った。不思議なほどたくさんの力を持っているせいで、人間の普通はもちろんのこと、人魚の"普通"の感覚すらナマエは知らないまま、息をしている。
果たしてそれは、生きているのか。ナマエは息苦しさに目が回り、ぐらつく頭を指先で支えた。


―――それでもテリーという光に導かれ、進んでいるあいだは生きている、気がする。


ナマエの視線は部屋の窓辺の鉢植えに吸い寄せられ、縫い付けられたように動かなくなった。窓辺の小さな花瓶には、銀と青と紫の小さな花が、朝の光に花弁を輝かせている。海の底では決してその美しさを感じられない色だとナマエは思う。地上に咲く花は、眩しいほどの光の下だからこそ、こんなに綺麗な色を出すことが出来るのね。


「…この花、テリーの色だわ」


触れるために、窓辺へと歩き出すのを躊躇わなかった。ゆっくりと下ろした足先には床に触れた瞬間、熱を伴った針が何本も突き刺さったかのような衝撃が走る。それでも唇を噛んだまま、ナマエは鉢植えに手を伸ばした。青色は、深い海の色。銀色は、部屋の鍵の色。紫色は深海の奥深く、青色と黒の狭間の色。――ナマエは青にも銀色にも紫にも、良い印象を抱けなかった。それが今、テリーのいない朝を迎え、変わろうとしていた。

青色は空に塗り、月を浮かべるための夜の色で、テリーを象徴する一番の色。銀色は星の瞬く空に浮かぶ月と、月光を溶かしたテリーの髪の色。紫色は優しい光で、ナマエを導く瞳の色。


ナマエにとって、テリーは確かに特別な存在だった。


時計を見上げたナマエは針の指し示す数字を読み、そうして静かに目を閉じる。青年の言葉が人魚を騙し、最終的に食べるための言葉でも、真実の愛の告白でも、ナマエのなかにテリーという特別な存在がある限り、ナマエは青年に想いを、青年の望むものを返せないだろう。罪悪感を抱えたナマエは、―――部屋を出ないことに決めた。約束を放棄し、もう一度眠りにつこうと足を踏み出し、ナマエはベッドに戻ろうとする。





――こん、こん。


控えめなノックの音に、ナマエは思わず足を止めた。――テリーなら、何も言わずに入ってくるのではないだろうか。随分低い位置で鳴ったノックの音に、ナマエはもう一度時計を見上げる。朝のこんな早い時間に、――誰が。



「…――お客様、起きていらっしゃいますかい?」
「え、あ、…ええ、受付にいらしたおばあさま…?」
「そうだよ。あんたにお客さんが来てるんだ」
「…お客さま、ですか」
「今、扉の前でアタシと一緒にこの扉が、開くのを待っているんだけどね」
「っ…い、らっしゃるの、ですか」
「ああ。開けてもいいかい?今すぐあんたに会いたいと、この老婆を急かすんだ」


問い掛けの最中から開きつつある扉を、ナマエは引き留めることが出来ない。どくん、どくん、どくん――……ナマエの心臓が、嫌な音で鳴り始める。時間は確かに、言っていなかった。どうしてここを知ったんだろう。追いかけられて、いたんだろうか。でも、


「おはよう、美しい人」
「……おはよう、ございます」


老婆の後ろで品の良い衣装に身を包んだ昨日の青年は、甘い毒を孕んだ微笑をナマエに差し出した。瞳はナマエを逃がさないと、言わんばかりに輝いている。


20160517