分からないことを忘れたい日




激痛を訴える脚を引き摺りながら宿に戻ったナマエはそのまま、ベッドの中に潜り込んだ。痛みと吐き気で揺れる視界、耳元で蘇るのは自分を美しいと称える青年の甘い囁き声。――悪い夢を見たのか、良い夢を見たのか。ナマエは先ほどの出来事を自分の中でどう処理すれば良いのか分からないまま、枕に顔を沈めて目を閉じた。テリーが戻ってくるまでナマエはずっと、そうしているつもりでいた。先ほどの出来事をテリーに伝え、テリーにどうすべきか聞かなければと、ナマエの瞼の裏で声が巡る。

テリーにとってのナマエが"よく分からない"存在だとすれば、それはナマエも同じだった。ナマエもテリーが、自分の中で一体どんな存在なのかはよく分かっていないのだ。
ただナマエのなかには漠然と、テリーに着いていきたいという思いがあった。それこそ、初めて出会ったあの瞬間から。月光に煌めく紫色の優しい瞳に、吸い込まれそうな美しい銀の髪に、ナマエは本能で惹かれたのだ。

――振り返ってはくれないけれど、置いていくことはない。

足が痛いと言えば、テリーは足を止めただろうか。気分が悪いと訴えたら、テリーはどんな反応をしただろうか。ナマエには今だ、よく分からないでいる。分かっているのは自分が原因で、テリーの機嫌を損ねた事実だけだ。どちらにせよ過ぎ去ったことなのだけれど、テリーの機嫌を損ねなければあんな風に知らない人間に、言い寄られて戸惑うことはなかったのかもしれないと思う。


「……"美しい"、って…私が?」


未だに言われた言葉の全てを青年の心からの言葉だと、信じることの出来ないナマエの呟きは枕に吸い込まれ、そのまま夕闇のなかへ消えていく。
食欲は気配の欠片も悟らせず、ベッドに潜り込んだナマエを眠気が誘う。人間の姿で、人間の脚で、眠りに着くのは不思議な感覚だった。それでもナマエはとにかく眠り、先程の出来事を夢と同化させてすぐ忘れるものにしてしまいたいと思ったのだ。


**


山沿いの道を進み、テリーが通行止めとなっている旅人の洞窟に着いたのはナマエが、ベッドに潜り込んだのとほぼ同時刻だった。
アークボルトの北部と南部を繋ぐ洞窟が通行止めになっていることで、旅人や洞窟工事の人間が、洞窟の中の簡易的な休憩所で寝泊りや休憩を取っているらしい。テリーはそのまま洞窟の奥へ進もうとしたが、アークボルトから派遣されている兵士がテリーを引き止めた。夜も遅く、アークボルトからここまで徒歩では疲れただろうと、簡易ベッドを差し示されてなおテリーは奥へ進もうとしたが、兵士はがんとして譲らなかった。全力を出すまでもないだろうとテリーは考えているのだが、兵士にとって洞窟の奥に巣食う魔物の親玉は随分と恐ろしい存在らしい。

テリーは諦め、簡易ベッドを借りることにした。気前の良いあらくれが、兄ちゃん細ぇなあ!などと言いながらテリーに握り飯を分け与えた。断る理由もなく、それを受け取ったテリーはふと、ナマエのことを思い出す。


――あいつ、飯はどうするんだったか


そういえばテリーは、ナマエが食事をしている姿を見たことがなかった。ナマエが水路を進み、テリーが陸路を進んでいるとき、テリーは自分の食料をナマエに分けることはしなかったし、ナマエはそれを当たり前のように受け止めていた。それはナマエが人魚の姿であったから、気にしなかっただけだ。人間と人魚では、食べるものが違う。
しかし今のナマエは人間の姿で、テリーの手助け無しではアークボルトから出ることすら、宿屋のあの部屋から出ることすら難しいだろう。人魚の食べられるものが、果たして水のなか以外にあるのか。人間の姿であれば、人間の食べ物を食べることが出来るのか。

宿の老婆に言うわけにもいかなかったのだから、しょうがないだろうとテリーは首を振る。……戻らないつもりはないし、戻るつもりだ。魔物が余程手強く、大怪我でも負わない限りはすぐに、あの宿屋に戻ってやれる。自分のいない時間が長ければ長いほど、ナマエはどうなるか分からない。もしかすると、水が無いせいで、今にも死にそうになっているかもしれない。可能性が、無いわけではない。

テリーはナマエをアークボルトに置いてきてよかったのか、分からなかった。同時にナマエの死を酷く不安に思う自分がいることにも気が付く。多少なりとも時間を共に過ごせば情が沸くことは分かっていたものの、命あるものを飼うことは責任が重いことだと思い知らされる。テリーに出来ることは朝の早いうちに洞窟に潜り、魔物を倒し、亡骸を棺桶に詰め込み、なるべく早くアークボルトに帰ることだ。


20160517