感情の名を知りたい日




王に課せられた腕試しの試練は、拍子抜けするほどあっけなく終わった。ナマエの魔法力に吸い寄せられた魔物と戦いながら進んだ影響か、テリーは1対多数の戦闘に対し、自分の体が慣れていたことを知った。半端に情を抱いて苦労した見返りとしては、十分だろうとテリーは思う。苛立ちや戸惑いを剣と共に鞘に納め、剣技を称賛する兵士の声を遠くに聞くテリーに、王は巨大な棺桶を授けた。棺桶に目的の魔物の死体を入れるだけで、雷鳴の剣が手に入る。棺桶を引くことに躊躇いはない。

城を出たテリーは頭の隅で、その棺桶の重みと抱き上げたナマエの体重を比べた。棺桶を引くことに比べれば、ナマエを背負い歩くことなど造作もないだろう。しかし果たして自分にそこまでする義理はあったのか、テリーは考える。気にかけ、背後を振り向くことをしなかったことに後悔はないが、門兵がナマエに声を掛けた瞬間湧き上がった怒りとも、戸惑いとも、動揺とも言えない、何にも成れないくせに確かに存在した、あの感情の名前は何だったのか。


――すれ違ったパーティのうちの一人が、自分を見つめていることに気が付かないまま。


テリーは再度門を潜り、旅人の洞窟へ続く道を選ぶ。ナマエに何も言わず、出てきたのは意図的だった。大人しくしろとは言ったものの、ナマエが本当に部屋で一人、動かずじっと自分の帰りを待つとは、テリーには到底思えない。好奇心に負け、あいつは必ず部屋を出るだろうと思う。足の痛みが悪化しない程度に、人間の街を楽しめばいいとも。

ナマエは初めての街で一人、人間の姿で過ごし、どういった感想を抱くのか。人間に幻滅したのなら海の底に帰せばいいし、アークボルトが気に入ったならここに置いていけばいいとテリーは思う。もう少し旅を続けたいというのであれば、――…さて、どうするか。


**


テリーが棺桶を引きアークボルト城を出た頃。
テリーの考えなど知る由もないナマエは、魚の尾を人間の脚で隠し、名も知らぬ青年に手を引かれ、池のすぐ近くに建てられていた小さな小屋の中で、彼と向かい合い座っていた。ナマエの目の前にはナマエが初めて見、香る、紅茶が繊細な模様の入った美しいカップの中から湯気を昇らせている。「遠慮しないで、どうぞ」「……ありがとう、ございます」頷いたナマエはおそるおそるカップに指を伸ばし、…未知の飲み物に口を付けることを躊躇する。


「紅茶は、初めてかい?」
「……ええ」
「なら、冷める前に楽しむといい。好みであれば、こちらも」
「…これは?」
「ミルク、砂糖、レモン。…君の好みが知りたいんだ、どれでも試してくれ」


熱の籠った視線から逃げるように、ナマエは青年から目を逸らす。

本当は逃げるつもりだったが、青年の腕はナマエの腕を掴み、離そうとはしなかった。最初はナマエも青年の言葉をまともに信じるつもりなど無く、青年がテリーの言うように自分を見世物にしたりするような、そんなことを考えている人間であればどうしようと迷っていた。ところが青年はナマエが何者であるかには一切興味がないようなのだ。
魚の尾のまま池の外へ連れ出されるのを拒んだナマエの下半身が、魚の尾から人間の脚に成っても、青年は驚くことはなかった。感嘆の瞳で、君は本当に美しい、とナマエを見つめ、零すばかり。流石のナマエも困ってしまい、とにかく話がしたいと懇願する青年に言われるがまま、青年の所有物の一つであるという小屋に案内された次第である。


「端的に言おう。――…僕は運命を感じた。君は?」
「…分かりません」
「なら、可能性があるということだね」


嬉しそうに綻ぶその顔に、ナマエはおそるおそる視線を合わせた。整った顔立ちは美しいというよりも甘く、多少の幼さを感じさせる。…だというのに瞳の奥は鋭く、その指先は獲物を一度掴んだら離さない牙のようだ。ナマエの腕から一度は離れたその指先は、今もナマエの腕を、手の平を、指先を捕らえる機会を伺っている。ナマエは未だ、紅茶に口をつけることが出来ないでいる。

…テリーはきっと、こんな風にしないわ。

ふとナマエの中に浮かんだのは、大人しくしていろと言ったテリーの横顔だった。乱暴な扱いだったかもしれないが、それでも脚が悪いと知った後、テリーは私を宿まで運んでくれた。――テリーの言う通りに、していれば良かったのかもしれない。

…いえ、やめましょう。悔いる暇があるのなら、ここから逃げることを考えるべきだわ。


「美しい人、僕にぜひその名を教えてくれないだろうか」
「…教える代わりに、今日は一度ここから…帰らせて欲しいのです」
「それは…難しいな。次に会う約束を交わしてくれるなら、話は別だけど」
「明日、あの池の前で待っています」
「本当かい?」
「ええ、…ですから、お願いします」
「ならばその言葉を信じて、明日あの池の前で待つことにしよう」


微笑んだ青年が椅子から立ち上がる。そのまま青年の自然な動きで差し出された、手の平をナマエは取るべきか一瞬だけ躊躇し、結局は激痛に耐え自分ひとりの力で椅子から立ち上がる。「…美しく、つれない人だ。そこにまた、惹かれてしまうな」「…勿体ないお言葉です」目を逸らしたナマエは青年の、自分を称賛する言葉がどうにも慣れないもので落ち着かない。


「君を家まで送り届けたいんだが、駄目かな」
「…申し訳ありません」
「いや、秘密が多い方が魅力的だ。…そのうちの一つ、名前を僕に教えてくれないか」
「……ナマエ、です」
「ナマエ……」


目を見開いた青年が再び何か言い出す前に、ナマエは踵を返し小屋の扉から外に出た。一歩、一歩、変わらぬスピードでナマエは元来た道を歩き出す。青年は、追ってこなかった。ナマエはそれに安心すると同時、戸惑いと怯えを抱くことになる。


20160514