全てを捧げたいと思う存在に出会う日




「テリー、ねえ」
「………」
「……ええと、その。ごめんなさい、私…」
「なんでもいい。とにかく、大人しくしてろ」


テリーの読み通り、城塞の外に構えられている宿屋は人気が少なく、店番も静かな声の老婆ただ一人だった。部屋を二つ取り、そのうちの一部屋にナマエを運んだテリーはベッドの上にナマエを下ろし、ナマエを睨んだ。テリーの言葉が抗えない、主人の命令に聞こえたナマエは静かにはい、と首を縦に動かす。

ナマエを一瞥し、テリーは踵を返した。ナマエという荷物だけを部屋に残し、テリーは何も言わず部屋を出る。残されたナマエは柔らかな太陽の香りのベッドで一人、現状を噛み締めた。テリーの静かな苛立ちは、ナマエの恐怖を駆り立てる。だって、自分が望んだことなのに。人間の足で、地面を歩きたいと願ったのは私なのに。ようやく、歩くことが出来るようになったのに。…テリーが、褒めてくれたのに。

テリーが部屋を二つ取ったとはいえ、ここに戻ってくる保障はない。許容の限界を超える面倒を、押し付ける存在は捨てられて当然だ。ああ、今すぐ泡になって消えてしまえたらいいのに。背中からベッドに倒れ込んだ、ナマエの脚には鱗がいくつか浮かび上がってきていた。集中切れ、時間切れ。歩くこと、テリーに着いていくことに必死すぎたナマエは随分と力を消耗していたらしい。


「……水、どこかしら」


部屋にはグラスも、水差しもない。喉だけでなく全身が乾き、水を必死に求めていた。呼吸は荒く、体は鉛のように重い。人間のように見えるものの、ナマエはやはり人魚だった。海で生まれ海で育ち、海に還る生き物が陸の上で生活することは難しい。


**


大人しくしていろと言われたものの、このまま大人しくベッドの上にいれば間違いなく自分は死ぬだろう。確信があったナマエは心の中で、テリーに謝罪を繰り返した。そうして痛む足を引き摺り、誰もいないカウンターを通り過ぎ、ナマエは宿の外に出る。

城壁の影にあるからか、宿の周辺には太陽の光が当たらないようだった。影で密やかに育つ植物に触れた足が、じわりじわりと侵食されていくような。鱗のちらつくナマエの偽物の足は、地面に縫い付けられていくようだ。歯を食い縛り、ナマエは足を進めた。右も左も分からぬまま、異種族の土地を感覚だけで進む。

やがてナマエが辿り着いたのは、手入れの行き届いた小さな池だった。城壁の隙間から差し込む光が、その場所を照らし出し、影の世界から浮かび上がらせる。既に宿屋の店主が所有する敷地を抜けていることに気が付かないナマエは、ただただ自分の求めていた水に向かって這うように進んだ。近づくたびに、激痛が襲う。――人間への憧れが、一瞬だけ揺らいだ。


「み、ず…」


喉から絞り出した声は、自分のものだと思えないほどに掠れていた。腕を伸ばし、地に膝を付き、ゆっくりと、ゆっくりと。確かめるようにナマエは水に触れた。表面は太陽の光で暖かく、中はひやりとしたこの水は海の水を思い起こさせた。溢れ出しそうな嗚咽を飲み込み、ナマエは足をそろそろと伸ばす。爪先に水が触れた瞬間、それがナマエの限界だった。人間の脚は光の粒子に溶け、魚の尾がそこに姿を現す。

痛みがまるで最初から、無かったもののように消えていくのが分かった。無意識のうちに揺らした尾が、ちゃぽん、ちゃぽん、と水音を跳ねさせる。ナマエは自分の尾を見つめ、自分の生まれたままの姿を見て、どうしようもない虚しさを飲み込んだ。――人間の足は、美しい。揺らいだといえど、ナマエはどうしたって人間に憧れを抱くことを、やめられない。

人間は自由な生き物だと、窓の外の話し声はいつも言っていた。色鮮やかな世界に立ち、自分の生きる意味を探して旅をする。その果てで海よりも深く愛することの出来るたった一人の存在に出会い、残りの時間をその一人に捧げるのだと。


―――あの部屋で呼吸する以外の生き方を、選ぶ権利が欲しい。


ナマエの深淵にあるのはそれだ。人魚である限りナマエは、海の底にあるあの部屋で、死ぬまで存在を隠されたまま呼吸をするほか何も出来ない。何も知ることが出来ない。
ナマエはその恐ろしさから逃げたかった。長い時間を無知で過ごすことはとても恐ろしいことだとナマエは思う。海の上に浮かぶ月を見て、太陽だと思う以前の自分。ここで生きていることが自分の表現出来る最大の愛だと、信じようとしていたあの頃の自分に、ナマエは戻りたくなかった。…テリーに言ったら、笑うかしら。


「……部屋に、戻らなきゃ」
「部屋って、どこだい?」
「宿の、――――……………」


ナマエは呼吸をするのを忘れ、背後からの声に体を強張らせる。「君は、どこから来たんだい?」穏やかな、敵意を感じさせない声だ。――しかし、振り向くのは恐ろしい。ナマエの下半身は今、人間と同じものではない。


「怖がらないでくれ、…君の名前が知りたいんだ」
「…………っ、」
「誰にも言ったりしない。ただ、その、…見惚れてしまった。とても美しい」


言葉を選ぶように紡がれたそれに、ナマエは体を強張らせたままゆっくり、ゆっくりと振り向いた。「…ああ、やっぱり」ほっとしたように、嬉しそうに声の主は笑う。微かな風に揺れる髪が、とても柔らかそうだとナマエは思う。――良い人間かどうか、一目では判断できないとも思う。


「やっぱり、そうだ」
「…やっぱり?」
「ああ、想像以上に美しくて…!こんな気持ちは初めてなんだ」
「え、あの、」
「名を、教えてくれ」


ナマエは知らぬことだったが、テリーあたりが見れば青年は、随分と質の良い衣服に身を包んでいることが分かっただろう。同時にナマエの魚の尾には、一切目もくれていないことを。ただただナマエの瞳の奥を射るように、青年は人魚の名を求めた。ナマエの戸惑いや動揺は、青年にとってどうでもいいことだった。彼は、自分の残りの一生を捧げたいと思う相手を見つけたのだ。


20160513