名前を知った日




初めての太陽は、ナマエにとって眩しすぎる、以外の感想を与えなかった。


「月はあんなにも美しくて、いつまでも見つめていられるのに」
「…太陽の光が強すぎる、ってのは分からなくもないがな」
「貴方はいいな、羨ましい。月と同じ髪の色だわ。本当に、とても綺麗」
「…………お前、いつまで着いてくるつもりだ」
「迷惑を掛けるつもりじゃないの。でも、…どこに行けば良いのか分からないし」
「人魚が人間の目の前に現れて、逃げない時点でおかしいんだ」
「そういうものなの?」
「お前、人間がどういう生き物か知らないのか」
「知ってはいるけど、お母様から伝え聞いたことだけ。拙い知識としてだけよ。これまで生きてきて、初めて見た人間があなただもの」


ナマエは出会いの瞬間から、美しい紫水晶の奥に隠れる優しい色に惹かれていた。

人間という生き物に興味があること。太陽の降り注ぐ世界に憧れていたこと。広大な海を泳ぐ尾を捨て、狭い大地を歩くための足が欲しいということ。ナマエは訝しいといわんばかりの、紫水晶に話して聞かせた。話すことに夢中になり、背後に迫る夜の海の魔物に気が付かなかった。水音に気が付き振り向いた瞬間、魔物は縦に裂け光の粒子となり海に溶けた。目の前の美しい少年が自分の危機を救うことを躊躇わなかった事実に、ナマエはひとつの確信を得た。――この人は、優しい人だ。たった一人、何も知らない私を絶対に放っておけない、と。


「人魚の肉は、口にすれば不老不死になれるって伝説がある」
「不老不死なんて、そんなつまらないものを望むの?」
「…つまらない?」
「私達の生きる時間は、人間より長いというけれど…それよりももっと長い時間、生きる意味ってあるのかしら」
「生きる意味?」
「ただ長く生きたい気持ちだけで自然に流れる時間を止めるなんて、そんなの苦しいだけだと思うわ。時間はこの世の全ての生き物に平等に与えられた財産で、それを自分から投げ出すなんて」
「…成し遂げたい目的を果たすために必要な時間が、自分に与えられた時間より長いときはどうするんだ?」
「その目的を果たすために、ひたすらに体を動かすのだと思うの」
「……」
「"生きている"、その理想だわ。…私は、そんな風に生きる人間になりたい」


アークボルト領へ続く塗装された道を歩くテリーは、思わず足を止めて人魚の少女を振り返った。長く旅を続け、純粋に強さを追い求めてきたテリーはナマエの内側に秘められた、恐ろしいほど膨大な魔力を肌で感じ取っていた。人間の世界の汚い部分を知らない、温室育ちの美しき蝶は狭く、救いのない大地を飛びたいという。

テリーにとって人魚姫のその願いは、くだらなさに吐き気を促すものだった。いくら世界を知らないからとはいえ、ナマエの人間になりたいというその願望は人間の欲の深さ、汚さを人並以上に体に教えられた、テリーにとっては考えられない願いだ。
今からでも旅人用に用意された道ではなく、森を突っ切り道なき道を進もうかとテリーは本気で考える。どうにも純粋無垢な目の前の人魚が汚らしい人間に捕まり、無残に殺されることを考えると出来なかったその行動の選択肢を、今なら迷いなく選べる気がした。


――選べる気がしただけで、結局見捨てられない自分の甘さがその頃のテリーは酷く嫌いだった。


「そういえば、名乗っていなかったわ」
「必要ない。覚える気がない。直に人間の汚さに絶望して、海の底に帰りたくなるさ」
「そんな風に言わないで。初めて出会った人間が貴方で、私本当に良かったと思うのよ」
「……は?」
「とても優しい人、私はあなたに命を救われたわ。恩人の名前を知りたいと思うこと、それはいけないことかしら」


海の底から解き放たれたその生き物の微笑みは、テリーにとって未知なるものだった。あどけない少女の、眩いばかりの笑顔というにはどうも純粋すぎて見ていられない。関わり続ければ身を滅ぼすのだろうと、既にテリーのなかには確信があった。

人魚という種族名を持ちながら、その感情表現は人間…いや、魔物に近い。彼女はテリーを優しい人間だと言い、テリーの髪を美しいという。テリーの瞳の奥を覗き込み、テリーの名前を知りたいと言う。


「人に名乗る前に、自分から名乗るべきだ。オヒメサマは礼儀を知らないのか?」
「あ、…ごめんなさい」
「…そこは素直に謝るのか」
「私には…その、人間の礼儀は分からないから」
「面倒臭い人魚だな。……いいから、名乗れ」
「――ナマエ」
「…へえ、悪くないんじゃないか」
「本当?」
「さあな」


テリーの耳に残ったのは、心地良い響きのその名前だった。ナマエは悪くないと言った、テリーの言葉に緩む口元を隠せない。「…ありがとう、嬉しいわ!」素直な喜びの言葉に、テリーはやはり面食らう。自分の調子が狂わされるのは、あまり得意な感覚ではない。


――けれども、ナマエと名乗ったその異種族の少女の、目が澄んでいたから良いと思った。


「…テリーだ」
「テリー。…貴方にぴったりの、とても素敵な名前ね!」
「…そんな風に言われたのは初めてだな」
「あら、本当に素敵よ?今までどうして言われなかったのかしら」
「………なあ、ひとつ聞いていいか」
「なあに?」
「人魚ってのは、みんなお前みたいに歯の浮くような言葉ばかり並べるのか?」


嬉しそうに手を叩き、自分の名をべた褒めにするナマエに思わずテリーは問うていた。澄んだ目の奥底で、戸惑いが揺れるのを知ってなお。純粋な白の底にある闇が、ナマエの影を映し出す、水面にちらついてテリーを惹きつける。


「分からないわ」
「…分からない?」
「私は確かに人魚って生き物なんだと思うけれど、他の人魚とは違うみたいだし」
「………ほう」
「だからお父様もお母様も、私をずっと閉じ込めていたのかも」


愛しているって毎日謝られたから、嫌われていたわけではないと思うけれど。


ナマエはそれを口に出さず、心の中で噛み砕いた。閉じ込めていた、と繰り返したテリーに何でもないのだとナマエは笑う。「なんでもないの。…もう少し私を見て欲しいと思っていたのに、見向きもしてくれなかったから拗ねているのよ、私」誤魔化すように視線を彷徨わせ、もう一度ゆるく口元で孤を描くナマエの顔をテリーは訝し気に見つめる。ただでさえ人魚なんて面倒臭い、と言わんばかりの表情のテリーに人魚だけれど他の人魚とは違うなんて、言わなければ良かったとナマエは思う。

知識も情報も当たり前の常識も、ナマエには何一つないのだ。今のナマエには新たな情報源を辿るツテもなく、かといって元の場所に戻るわけにもいかず。出てきてしまった以上、ナマエは引き返すわけにはいかない。だからナマエはテリーの興味が、テリーの同情が、消えてしまわないように繋ぎ止めなければならない。そのためにナマエが気を付けるべきは、テリーに極力面倒だと思わせないことだ。



「……ええと、テリー。私はその」
「正直なのは悪いことじゃないだろ。…まるで子供だ」
「あら、私きっと貴方より長い時間を生きているわ」
「精神の話をしてるんだ。――まあいい。それで?」
「…それで?」
「お前だよ。俺に着いてくるのか?どこまで?」
「出来ることなら、人間になれるまで」
「家に帰るってのは?」
「……帰りたくないわ。帰りたくない」


ちゃぽん、と水音が跳ねた。口元まで水の中に沈み、怯えるように海の底を見つめ。愛おしさよりも今は戻った時の恐怖の方が大きい青色の底に、ナマエは戻りたくないと思う。そして出来ることならば、魚の尾では決して登れない、テリーの立つ陸に上がることが出来れば良いと思う。そうすれば、ナマエは他になにもいらなかった。ナマエの時間は太陽の元で、ようやく動き出したのだから。


20160512