彼女と花 5




君に会うのは随分久しぶりだ、と柔らかな色の髪を揺らしてこの屋敷の"主人"が笑う。


「ナマエ、体の―…足の調子が悪いと聞いたが」
「…ええ。今日も人の肩を借りなければ、ここまで歩いて来られなかった」
「僕としては君がどこにも行けなくなるのは、嬉しいし安心するけれど」
「お戯れを…私がここを出て行くことはありません」
「本当にそうだといいのだけれどね。僕と婚約を結ぶのが嫌になって、逃げだすだとか」
「貴方のような方が、私を見初めてくださったことが…今なお信じられないというのに」
「それこそ謙遜に違いないよ、ナマエ。僕は君を心から愛している」
「……ありがとうございます」


優しいひとだ、と思う。目の前の男が自分に向けた表情は、いつだって自分を労わり、慈しみ、心から愛そうとしている。…実際、愛されているのだろう。手入れの行き届いた庭を、部屋のものより少し大きな窓から眺めながらナマエは思う。――目の前の男はたった一人の使用人が自分に触れることすら、嫌がるほどに私を愛している。

息苦しさの理由の一つだった。確かに私も彼を愛しており、彼との結婚を望んでいるはずであり、彼のために生き、彼のために存在することを望んでいるはずなのだ。…望まなければならないはずだ。それが私の生きている理由であり、こうして呼吸している所以なのだから。だというのに、なぜだか息をするのが苦しくて、苦しくてたまらない。
狭い部屋にずっと一人だから?会話をするのが、たった一人の使用人と"彼"だから?小さな窓から眺める外の景色が、私の世界の全てだから?


―――もっと、広い場所へ。大きな世界へ。


―――願わくば、青色に溶けたいのです。


「私のようなものにでも、無限大の愛を注いでくださる貴方様に、お願いがあるのです」
「お願い?君が、僕に望むのかい?」
「…ええ。貴方様にしか、叶えられない」
「ほう、言ってみてくれ」
「……その、海を、見たくて」


ナマエの消え入りそうな声に、男は小さく目を見開いた。同時にたかだか、花ひとつを贈り続けるだけでナマエにここまでのことを言わせるまでにした、花の贈り主を――テリーのことを思い出し、あんな子供が、と微かに唸る。自分の"お願い"に相手がどんな反応をするか、恐れているナマエは男のそのような思考になど考えは回らない。

男はテリーに情があった。同じ女を好いた男として、報われなかったその好意に同情したのだ。テリーの言葉だけは抜き去るが、花ぐらいなら贈らせても良いと考えていた。しかし今、男はやはり花を許すべきではなかったと思う。花の色、意味、全てはナマエももう覚えていない。テリーの中にしか、テリーとナマエが共にあった時間は残されていない。テリーしか知らないテリーだけのナマエが、この世に存在しないことを男は哀れに思っていた。…しかしやはり、哀れに思うべきではなかったのだろうと男は考えを改める。いや、ここはテリーのその一途な好意と行為に称賛を贈るべきなのか。――そもそも、未だ諦めきれていないのはナマエとの最後の別れ故か。


「海を見たい、と」
「ええ、本物だなんて言いません。…そんな我儘は、とても言えない」
「どんな形でもいいのかい?」
「絵でも、写真でも、瓶詰でも」
「君は欲が無いなあ。どうしても本物を、と望めばいいのに」
「……本物を、見せてくださるのですか?」


男は目を見開き、微かな希望に瞳の奥を瞬かせたナマエの顔が好きだ。


「…ごめんね、ナマエ」
「……知っています。絵も、写真も、瓶詰も」
「うん、駄目だよ。君に青色は似合わない」
「…………ええ」


希望から一転、事実を突きつけられ。望むものを得られない絶望に、瞳の奥に煌めいた希望の光が散り、消え去る瞬間のナマエの顔は男にとって、より好ましい。


「あの部屋は色が薄く生気がないからね。…花ぐらいは、と許していたけれど」
「……はい」
「今後一切、贈ってきてもナマエ、君の元へは届かないことになる」
「………」
「ごめんね、これも君のためだ」
「…ええ、分かっています」
「君の傍仕えから聞いたよ。君の足の不調は、君の記憶の綻びから来たようだ」
「…………その、ようです」
「しかし足が動かなくなるとは…薬を飲まなかった日があるね?」
「……申し訳、ありません。どうしても、飲むと…苦しくて」
「傍仕えにも隠し、捨てていたなんて…いけない子だ。だから、君の望みは叶えられない」
「…良い子にします。良い子にしていれば、いつか」
「ああ、本当の海に君を連れていってあげよう。――美しい青色が、好きだろう?」


20160511