せめてこれくらいの痛みを


――これが恋だと自覚するのに、それなりの時間を要したからか。

彼女は俺が知る限り、一番古い記憶から随分最近まで本当に引っ込み思案で臆病者だった。普段から女友達の影に隠れて、休み時間は図書館に通いつめていた。だから表に出ることが少なかったけれど、俺は彼女がヒーロー向きの、恐ろしく強大な力の個性を持っていることを知っていた。能ある鷹は爪を隠すと言えど、密やかに噂程度は流れるものだ。

彼女は恥ずかしがり屋だった。幼稚園の時は演劇に出るのを恥ずかしいと拒み、小学生に上がってからはクラスメイトの前で自己紹介をするだけで上がってしまって何も喋れなくなるタイプだった。成績は良い方だったけど、別段目立つほど良いわけじゃない。運動神経も良かったけど、それもそこまで目立つものではなかった。だから彼女はいつだって教室の隅で一人、または女友達と二人程度で本を読むか図書館で過ごしていたし、似たような境遇に置かれた俺はそれをよく知ることとなっていた。多分、彼女も俺のことを知っていた。俺の個性のことも、おそらく知っていただろう。

目で追うようになったのはいつだったか、覚えていない。最初からだったかもしれない。何故だか探したくなったし、不思議と見ていると落ち着いた。声を掛けようとは思わなかった。…見ているだけで、どこか満たされていたのだ。
休み時間、人の少ない図書室。校庭で駆け回るクラスメイトの喧騒は遠く、耳には少し離れた場所で、彼女が本のページを捲る音だけが耳に届く。

――それは確かに幸福だった。





学年が変わり、クラスが変わる。常日頃から探すわけではないけれど、廊下ですれ違えば見えなくなるまで目で追いかける。やがて小学校を卒業し、中学に入ってからもそれは続いた。俺も彼女も同じ中学を選んでいたようだった。…運命的なものがあったのかもしれない。初めて言葉を交わしたのもこの時だっただろうか。

心操くん、同じクラスだね。はにかみながら俺に話しかけてきた苗字さんを見たとき、積み重ねてきた何かががらがらと崩れ去る音がしたのだ。周囲が知らない人間だらけの環境で、何度か同じクラスになった。お互い名前も個性も(噂だろうが又聞きだろうが)知っている人間が俺だけだった。だから彼女は、苗字さんは俺に話しかけた。

分かっている。分かっているのだ。理由がほんのささいなことだと。それでも動揺は抑えきれなかったし、動揺を覚えた自分にも驚いた。どうして動揺したのか。どうして話しかけられただけで、こんなに心臓が跳ねるのか。

好きだと意識したのはこの時だったかもしれない。…目で追う頻度が増えた。話しかけられることが多くなり、話しかけることも多くなった。苗字さんのことを知る機会が増えた。好きな食べ物、誕生日、好きなヒーロー、将来の夢……本人の口からぽつぽつと漏らされた情報を、一つ残らず覚えていた。

苗字さんの夢を聞いたとき、彼女は俺に聞き返した。心操くんはやっぱりヒーロー志望なの、と。俺の個性を知ってなお、そんなことを言われたのは予想外で目を見開いた。多分俺の人生には、苗字さんが必要なんだって。…そんな風に、思ったりするぐらいには嬉しくて。嬉しくて。――好きが、募って。


「…ねえ、心操くん」
「どうしたの、苗字さん」
「あのね、その…男の子の意見が聞きたくて」
「俺に協力出来るんなら、なんでも」


「…女の子の方から告白するのって、変かな」


**


視線の先には別の男がいた。事実は眠り、朝目が覚めても変わることはなかった。苗字さんはひたむきに、真っ直ぐにそいつへ向かっていった。二人で図書館。二人で下校。二人で日直。付き合っているのではという噂が流れ始めるのに時間は掛からない。

好きなら、好きな相手の幸せを願うべきだ。そう考える。考えるのに、そうしたくないと思う自分が確かに存在している。苗字さんの隣に立つのが俺であったらいいと思うし、男に醜い嫉妬心を抱く。苗字さんも、俺のほうが幸せに出来るし大事に出来る、そんなことを考える。そんなことばかり、考える。


あの二人はいつ手を繋ぐ?いつキスをする?――いつ身体を重ねる?考え始めたら止まらない。苗字さんを大切に出来るのか、あんな男に。無理だろ、俺の方が、苗字さんのことを昔からずっと知っている。守ってやれる男になる。苗字さんがいれば誰にも負けない。――何がなんでも俺は苗字さんが欲しくて欲しくて、たまらなくなっている。

我慢の限界はすぐそこだった。ぷつん、と我慢していた何かが爆ぜたのだ。どうせなら誰も触れられない、誰も見ることのできない場所に彼女を閉じ込めてしまいたかった。個性を使って、俺だけのものにしてしまいたいと思ったのだ。でも、出来ない。出来ないのだ。常識的に考えても、個性の相性的に考えても。難しい。何より俺の好きになった苗字さんは、……変わらないままの苗字さんだった。今の恋する女の子の顔をした、苗字さんではないように思う。つまり手遅れだということ。…それでも。それでも、俺は。


腕を伸ばした。触れられる距離に一人で彼女が佇んでいた。苗字さん、名前を呼んだ気がする。どうしたの、心操くん―――言葉が全て音として形を成す前に、唇を奪う。戸惑うような声と、驚きで見開かれた目が、微かに怯えで震えるのが見えた。ごめん、ごめんね苗字さん。好きなんだ、好きだったんだ。…だからごめん、手遅れかもしれないけど、君から全部奪わせて。


せめてこれくらいの痛みを



(2015/07/03)