宣誓、あなたに恋をします


名前ちゃん、今どこにいるの?


電話口から聞こえる声は、今一番聞きたくて、同時に一番聞きたくない声だった。名前ちゃん、もう一度出久が私の名前を呼ぶ。息を呑んだ私は、どこかに自分の声を忘れてきていたみたいだった。多分、それはあいつのところだった。つい数十分前のことを忘れてしまえたらどんなに楽だろう。

この世界で、個性を持っていないことはそんなに罪深いことだろうか。何も出来ない、非力な人間でいたらそれは悪いことなのだろうか。…無個性のレッテルは、幼い頃の約束すら放棄させてしまう。純粋に、信じ込んでいたのが悪かったのかもしれない。…それなりに努力したつもりだったけど、それは届かなかったみたいで…届くと信じ、真っ直ぐ走っていた私のかけら。それはもう、どこにも残されていない。


「駅前のバス停。なにかあった?」
「ほら、今日かっちゃんに経営科に受かったって、言うとか」


そういえばそんな用事があったかもしれない。なかったかもしれない。同じ高校に行きたくて、寝る時間も惜しんで頑張った、ような気もする。「…でも出久、無個性じゃやっぱりダメだったよ」――口元が緩む。自分でも驚くほど、普段通りの声が出ている。名前ちゃん、ともう一度出久が私の名前を呼んだ。……あ、耐え切れない、かも。


「…ずっと好きだとか、お嫁さんにしてくれるとか、……言ったくせに」


呟いたそれを完全防水の電話口はきちんと拾ったみたいで、息を呑む音が微かに聞こえた。真っ黒な空から降り注ぐそれは、…頬を伝った冷たいなにかは、砕かれた心臓の残滓だろうか。――どうしたって、今も好きな気持ちを残したままでいる。幼稚園で、初めて顔を合わせて、ひとめぼれした!おれのヨメになれ!って…言ってくれた彼はどこに行ったんだろう。無個性でクソ弱ぇお前は、しょーがねえから俺が守ってやるよって、顔を背けながら言った彼を私は純粋に信じていた。信じていた私はやっぱり嘲笑われて、調子に乗るなと脅されたりもした。それでも、…それでも信じたかった。言葉の全てを信じていたかった。一目惚れをしていたのは私だって同じで、ずっと好きで、


「かっちゃんに、酷い事言われたんだね」


電話口でこうして、焦った声を出している出久との電話を今すぐに切り上げたくて、でも通話終了のボタンを押そうと指が動かない。慰めて欲しい、縋らせて欲しい、放って置いて欲しい…様々な感情が頭の中で渦を巻いていた。私をいつだって肯定してくれていたのは出久だった。お互いに幼馴染で、家が近くて、…無個性で。出久の努力する姿が無かったら、私はきっとすぐに勝己に飽きられていたんだろう。もう遅いかもしれないけど、…幸せな夢を長く見せてくれたのは出久だ。努力はきっと報われるから、と笑ったその横顔にどれだけ励まされたことだろう。

そう、幸せだった。全部、全部なくなった。嘘だっての、と。吐き捨てられた言葉と鋭い目つきは見たことのないものだった。無個性は消えろ、と発した口を私は知らない。
特別だと信じ込んでいた。特別だと、言われ続けていた。ねえかっちゃん、どうして今更そんなことを言おうと思ったの?もっと早く、切り捨ててくれて良かったのに。お前が好きだ、って目を逸らして、ちょっと顔を赤くするかっちゃんの顔が好きだった。大好きだった。心から、一緒にいたいと思っていた。…そんな器用に、嘘を吐けるなんて知らなかったんだよ、私。

ねえ出久、どうしたらいいかな。――いっそ縋ってしまえと衝動が私に囁いている。同時に頼りない表情の、大切な幼馴染と今までに築き上げた関係を壊したくないのなら耐えろと、私の理性が必死に抵抗するのだ。縋るのは、吐き出すのは誰でもいいわけじゃない。信頼している、出久が良かった。でも、大切な友達である出久は一番嫌だ。ああ、ああ!…――全部、ぜんぶ壊してしまったかっちゃんなんか、


「…名前ちゃん、バスは何分後?」
「………15分」
「じゃあそこから動かないで待ってて」
「…なんで?」
「名前ちゃんに、告白しに行かなきゃいけないから」


手のひらから落ちていった端末が、地面に落ちたあと、画面を私の方に向けて通話終了の音を響かせていた。は、と漏れた声が自分のものだと気が付くまでのあいだ、頭の中は真っ白だったらしい。ざあざあと音を響かせ、降り注いでいるそれの勢いは止みそうにない。5分、私に、告白しに、出久は来なきゃいけない。同情の声でも、哀れみの声でもなくて、何らかの決意をした声だった。ねえなにそれ、出久…なあに、それ……




そのまま呆然と立ち尽くして、どれぐらいか時間が経っただろうか。名前ちゃん、耳に届いた優しい声に振り向くと癖っ毛を雨に濡らした幼馴染が立っていた。すごい顔だよ、と笑った出久はそのままゆっくり私に歩み寄って、腕を伸ばした。「風邪引くよ、名前ちゃん」いつもと同じ声で、いつもと同じように笑って。いつもは絶対に触れないのに、出久は私の頭を包み込むように抱きしめた。…頼りないと思っていた出久が、男の子の体をしていたんだと気がついたのはこれが初めてだった。名前ちゃん、と端末を通さず、直接耳元で私の名前を呼ぶ出久に聞きたいことがたくさんある。出久、どうして、


「かっちゃんと居るときが、一番幸せそうだったから」
「……うん」
「名前ちゃんが幸せなら、良かったんだ」
「…いず、く」
「名前ちゃんの努力は、僕が一番知ってるから」


泣いていいよ、と。撫でられた頭に、何かが崩れる音がした。出久出久、なんで、ばか、と。大切に育てていた感情を、ぐちゃぐちゃに握りつぶされたそれを、無駄じゃないと認めた出久は縋り付いて嗚咽を漏らす私と一緒に全部、受け止めた。そうして出久は、好きだったから、と少しだけ悲しそうに笑った。「名前ちゃん」「…うん」「かっちゃんの代わりにはして欲しくないけど、でも」…言葉を選んでいるのだろうか。少し迷った出久が、腕を離して私と目を合わせる。


「…これからは僕が、名前ちゃんを守ってあげるって言ってもいいかな」


宣誓、あなたに恋をします


:シングルリアリスト
(2015/05/12)



名前に限っては、特別だった。個性があろうが無かろうが、ずっと手元に置いておくつもりだった。――要するに、限界が来たってことだ。気持ちだけで同じ世界に生きることは出来ない。

ここ最近はずっと、デクの野郎と名前が一緒にいる。学校で俺に隠れて、コソコソ二人で会っている。俺と名前のことを知らない奴らは、デクと名前をお似合いだとか。無個性同士、ってとこだろうと思っていた。

あいつのことぐらい、少し考えれば分かったかもしれない。どこか目的の高校に行くため、必死に勉強している、と。それでも俺と話すときに上の空で、デクと話すときは真剣で、気に食わないと直接言ってやっても態度を改めようとしない。ああそうかよ、好きなのは俺だけだったってか、と。聞こえるように呟いてやっても名前は耳元のイヤホンを外そうとしない。二人きりで居るときぐらい構えよ、とイヤホンを取ってやればいきなりどうしてそんなこと言うの、と…目を丸くして顔を上げる。小型のプレイヤーはデクのものだと名前は笑った。名前の手元にはデクのやつが貸していた参考書があった。名前の鞄からはデクのノートが出てきた。名前は、


「あ、かっちゃん!珍しいね、遅れるなんて」
「……そうかよ」
「あのね、言わなきゃいけないことがいっぱいあるんだよ。…あ、雨振りそう。傘持ってきた?」
「……」
「私折りたたみ一つしかないけど、いざとなれば二人で使えるかな」


笑顔が取り繕ったようなものに見えてしまったのは、空もなにもかもを覆い尽くしてしまった暗雲のせいだったかもしれない。…嘘だっての、と。吐き出した瞬間から、止まらなくなるのは目に見えていた。ぱちぱちと目を瞬かせた名前は、何を言っているのか分からないという顔をしている。そこに立っているのは、多分もう俺の好きな名前じゃない。無個性の、ただのザコだ。モブだ。顔も、個性も、なにもない。俺が完璧な一番になるために、不要なものを切り捨てた。それだけだ。


ーーあんな無個性女に、苦しくなるはずない。