03


握力はしょうがないとして、立ち幅跳びは記録のために足をパネルに乗せて自分を浮かせた。50m走の記録も結構地味だったから、立ち幅跳びでようやく私はヒーローの卵らしい記録を出したと言えるだろう。反復横跳びは手を付ける位置にパネルを出して、跳ね返りで中学の頃の記録を塗り替えた。ボール投げはボールをパネルで囲って、目の届く限り遠くに飛ばすだけ。…とにかく、自分の記録なんて二の次だ。除籍は恐らく嘘だろう、と結論を出した私は自分の記録を二の次にして、彼の姿ばかり見てしまう。

目立った記録は今だ出ていないみたいだった。苦しそうな表情にずきり、と痛むのは心臓か。…何を考えているのか、なんて分からない。そもそも彼の口から、彼の名前すら聞けていない。出身校も、血液型も、誕生日も、何も知らない。――…何も知らないのに、どうして私はこんなに、心臓が痛むんだろう。力になりたい、って思うんだろう。こんなの、誰にも思ったことないのに。一目惚れって恐ろしい。好きって、辛い。

それでもこのテストは彼が自分の力で乗り越えねばならない箇所だ。唇を噛んで、必死に力になりたいと叫び出しそうな自分を抑える。除籍、最下位、といったワードが彼に負荷を掛けているのは明白だった。それでもプロになるにはプレッシャーも跳ね除ける強さが必要になるだろう。彼が、あの一撃が。たくさんの人を照らす、太陽になるための最初の試練なのだと言い聞かせる。小さくがんばれ、と呟いたのは隣の焦凍に聞こえたかもしれない。

ボール投げで、彼の番が回ってくる。一投目は至って普通の記録で、握り締めた指先の爪が手のひらに食い込んだ。先生が、どうやら"個性"で彼の発動しようとしたあの個性を消し去ってしまったみたいだった。何事か、告げられている様子に心臓がばくばくと音を立てる。「おい、顔色が悪いぞ」「…そ、う?」上擦った声になった私を、やはり訝しげな目で見つめる焦凍に何か言い訳をしようと思ったけど、再び彼がボールを投げるサークルの中に入ったことで、頭の中の色々なことが吹き飛んだ。…お願いだから、あの時みたいに!迷っていた私に、ヒーローって目標を示してくれたあの入試の時みたいに!不安な気持ちを吹き飛ばして、




「――…やった!」


思わず、飛び上がって手を叩いていた。SMOSH、の叫びと共に投げられたボールが凄まじい勢いで飛んでいく。705.3m、開示された記録に胸が躍る。良かった、なんて上から目線だろうか。でも、プレッシャーに打ち勝った。すごい。記録が出て良かった。格好いい、


「…どこに行くつもりだ」
「……え?」
「どこに、行く、つもりだ?」


腕を掴まれている、という事実を認識したのは数秒を経てからだった。「次、お前持久走だろ」ぱちぱち、瞬きをする私の腕を、掴んでいるのは焦凍。間違いなく、焦凍だ。一言一言、区切られた焦凍の言葉をゆっくりと噛み、飲み込んだ私はようやく自分が走り出そうとしていたことに気がついた。走り出そうと、していた?誰のところに?……勢いだけで?


「う、うわ……だめ、だ…」
「本当、変だぞ。…入試の日から」
「いや、だって、しょうがない、じゃん」


しょうがない。しょうがない。格好いいのが、全部悪い。「次、持久走だっけ」「…ああ」頷いた焦凍が腕を離した。私は熱の集まった顔を手のひらで仰ぎながら、ふらふらと次の持久走のための移動を始める。視界にちらりと映った彼は、指を庇うようにして笑っていた。……話しかけるタイミングは、未だ見つからないままだ。


**


「へえ、苗字さんの個性は"障壁"…面白い個性ですわね」
「八百万さんの"創造"も。本当になんでも創り出せちゃうんだね」
「ねえねえ、それってさ、ウチの音とかも防御出来ちゃうヤツ?」
「個性の力なら跳ね返せるよ」
「へえ、面白いね!」
「体力的に制限が多いけどね」


更衣室で私に声を掛けてくれた耳郎さんと、興味深そうに私を覗き込む八百万さんと一緒に私は教室の扉を開ける。既に教室にはほとんどの男子が帰ってきてきて、メガネの人が生き生きとカリキュラムなんかの書類を一部づつ机に配り歩いていた。確か…50m走の記録が一番だった、速度の個性の人。
女子生徒のなかでは私たちが一番乗りだったらしい。また後で、と手を振ってくれた耳郎さんと八百万さんに手を振り返した私は席に付いてざっと教室を見回す。彼は……あ、帰ってきたみたいだ。

指を庇うようにしたまま教室に帰ってきた彼は、カリキュラムの類に目を通すことなく着替えの入った袋を机の横に掛けた。手には先ほど先生から渡されていた保健室の利用書が握られている。椅子に座ることなくそのまま教室の扉を再び開けた彼に駆け寄ろうとする私を、止めようとする人は誰もいなかった。衝動のまま、席を立ち上がる。

なるべく自然な動作で私は教室の扉を開いた。右からは着替えを終えた、女の子達が歩いてくる。左は…いた!俯いて、歩いている特徴的なモサモサとした頭。柔らかそうなそれは案外大股で歩いていて、自然な動作で追いかけよう、と考えながら歩き始めた私をすぐに引き離してしまいそうだった。咄嗟の、早足。追いついたのは、人気の薄い階段。


「あの、!」


見下ろした先でぴたり、と彼の動きが止まる。振り向いたその目が、初めて私を映した。「…君は、」確か同じクラスの、と呟いたのが聞こえた。どくん、どくん。心臓が、うるさい。聞こえてしまいそうで、ひやひやする。でも、どうしても、


「私、苗字名前、です」
「…緑谷出久、です」
「みどりや、くん。入試の時にね、その、あの、……さっきも、格好良かった!」


階段に響いた私の声は、思った以上に大きかった。大きい声で、ちゃんと言えた!「一緒にさ、頑張ろ!」自然と緩む口元、突き出したピースサイン。目を見開いた緑谷君は口ぽかんと開けていた。あれ、もしかしてやっちゃった、なんて思ったのも束の間、


「ありがとう、苗字さん!」


細められた目と緩んだ口元に、どっきゅん、と何かが鳴る音がした。「保健室だよね、気を付けて」「うん!」必死に作った笑顔で手を振ると、嬉しそうな、きらきらとした――笑顔で緑谷君も手を振り返してくれた。そのまま、階段の下に緑谷君が消えていくまで私は目で追いかけていたみたいだった。視界から緑谷君が消えてやっと、言葉を交わした実感がふつふつと湧き出してくる。

呼ばれた名前にさっきとは桁違いの音を響かせた心臓。苗字さん、って。ありがとう、って……ばくばくばく、鳴り響く心臓を抑える。また、顔に熱が集まっているみたいだった。もう、彼は彼じゃない。彼は、緑谷君だ。ああ、どうしよう、話しちゃった…!




(2015/05/07)