最初のきっかけ


その人の噂を聞いたのはいつだったか。旅立ってすぐだったかもしれない。とても腕の立つ剣士が、街一番の宝剣を手にして去っていったとか、魔物を倒してくれたとか、街中の女を虜にしたとか。動く姿はさながら閃光のよう、と命を救われた女性が蕩けた表情で語ったのは人々の間で噂になった。酒場では青色に銀髪のその剣士の噂が聞けたし、貴族はその剣士を自分の近くに置き、守らせたいと思っていたようだった。かくいう私はその剣士に、すごいなあ、と人並みの感想を抱くだけだったけれど。

当時の私は故郷を出たばかり、先立つものもなく、自分以外を信じるのが難しい状況に立たされていた。ハープひとつ身ひとつ、街角で奏でて少しの小銭でごはんを食べて、酒場に登録して誘いを待つ。私の場合は運良く、パーティ加入の誘いが途絶えることはなかった。特に戦士の多いパーティには、私の使える呪文は魅力が大きいようで三食付けて少し遠くの街まで、同行することも何度かあった。移動の最中に音を奏でて欲しいと頼まれ、その時の環境で音は変わった。移りゆく季節、一箇所に留まることのない自分自身。世界は広く、ペガサスの手掛りは少ない。行く先々で聞く青い閃光のような剣士のことを語る声を聞いて、いつか本物に会えたのなら、一曲作らせて欲しいと頼んでみようか、ぼんやり考えたことがあったのもこの頃だったかもしれない。


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非常に腕の良い女の吟遊詩人がふらりと街に現れる。吟遊詩人は伝説の生き物を探している。現れた街で彼女が奏でた音と声は、草木を喜ばせ地面にエネルギーを与える。その吟遊詩人はその街の伝承を調べ、伝え、一箇所に留まることはない。

そんな噂を耳にしたのはいつだっただろうか。あまりよく覚えていない。それでも偶然立寄った街の一角で、子供に囲まれたその女が歌っている声を耳にした瞬間、得も言われぬ感覚に包まれたのは事実だ。子供みたいな笑顔、汚れを知らない、真っ白なそれ。透き通った声と、子供の歌声が混ざる。それは俺が持っていたもので、失ったものだ。汚れることを知らないそれは、多分俺と違う世界に存在していた。

しばらくして歌い終わったその吟遊詩人は子供に手を振り、街の方へ消えていった。俺の存在を知らないまま、きっとあの吟遊詩人は歌い続けていくのだろう。ぼんやりとそんな感覚を覚えた午後のこと。


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丁度キャラバンが解散して、私は酒場に登録してもらうために歩いていた。街の賑やかな通りの真ん中で、私は誰かに肩をぶつけられる。咄嗟に避けることが適わず、わざとであろうに苛立った風を装ったそのガラの悪いその男達は、私の手を引いて路地裏に連れ込んだ。囲まれた瞬間にマヌーサでも掛ければ良かったのだろうが腕を掴まれ捻り上げられ、そこで冷静な感情は恐怖に屈してしまったのだ。こわい、こわい、こわい。頭の中にその三文字が浮かんでは消え、浮かんでは消える。体が震えて、目の前が霞む。腕を掴む知らない太い指、服に手を掛ける知らない腕、下品な声。…上着を破かれ、襟を掴んだ手が喉に触れる。声すら出せないその暗闇が、私の目の前に迫っていた。既に包まれて、私もどこかに連れて行かれようとしている。

――恐怖で滲んだ涙が地面に落ちた瞬間だった。差し込んだ青色の影が美しい銀色の髪を風に揺らして剣を抜いた。男のうちの一人がそれに気付き、声を上げる。目を瞬くうちにその男の腕から血が噴き出し、動揺の声が周囲に広がる。青い剣士。隣の街に来てるって噂が流れてきた。青い剣士。……彼が。

血を流すそれを抱えて一目散に逃げていった男達と、取り残された私。剣士はそれら全てに一度も視線を向けないまま、背を向けて歩き去っていく。ちらりと見えた横顔は怒りの感情に染まっていて、ありがとうさえ言うのを躊躇わせた。結局私は立ち上がって宿屋に戻るしかなかったし、一言お礼を言いたくて街の人に話を聞いてもさっぱり、さあ分からないねえだとか、それっぽい剣士はさっき街を出たよだとか、そんなことしか聞けなかった。


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――女を無理矢理手篭めにしようとする男の姿が、姉さんを攫った影と重なった。

姉さんはどれだけ苦しい思いをしたのか。姉さんはどれだけ助けを求めたのか。姉さんはどれだけあいつらを恨んだだろうか。姉さんは――……無力な俺を守ってくれた。俺が無力だったからいけなかった。今は?無力じゃない。無力ではない。力がある。

首を跳ねても良かっただろう。ただ、息の根を止めてしまうよりは痛みでじわじわと苦しめばいいと、旅服を纏った女に群がる男のうちの一人の腕に迷うことなく剣を突き刺した。――次の瞬間、響いた耳障りな叫び声とざわめきに思わず、やはり喋れなくした方がいいのかと考えた次の瞬間には、悪趣味なそいつらは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。……ああ、苛々する。気分が悪い。剣に付いた血が気持ち悪い。吐きそうだ。

踵を返した。女の顔にも様子にも謝礼にも、何一つとして興味はない。そこにあったのは煮えくり返ったマグマのような苛立ちと、この程度で苛立っている自分への嫌悪感だけだった。――ここに最強の剣はない。なら、この街に用はない。今すぐここを出て魔物を三匹四匹狩れば、多少の憂さ晴らしにはなるだろう。


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「……あったか、そんなこと」
「あったよ、こんなこと」
「覚えてない」
「そりゃあそうだよ、テリーにとっては私のことは些細だっただろうし」


眼中にないって顔してたもの、笑うナマエの横でなにひとつ覚えていないふりをするのは少しだけずるい行動だっただろうか。「…あの時は本当にありがとう、剣士様」「別に。身に覚えのないことで礼を言われてもな」「あーあ、素直じゃない」そんなんだから、と笑うナマエの真っ白な笑顔を自分の満足で守れたこと。覚えていないフリは、きっとこれからも続けるだろう。あの時、あの場で首を跳ねることを躊躇っていて良かった。結果的にナマエは恐怖を覚えずに済んだ。たったひとつ、歯車が噛み合わなければ俺はあの後二度と、ナマエと会うことはなかっただろうしナマエを好きになることもなかっただろう。


「…旅はいいよね、テリー」
「珍しいな、お前と同じことを考えた」


笑うその横顔を守るために



(2015/06/13)

いつか書こうと思ってた二人の6パ加入前