「だから好きってわけじゃないって」



「一ヶ月も自由だったけど、楽しかった?」
「……どういうこと」
「名前は俺が大好きだもんな。寂しかっただろ」
「ねえ、」
「まったく、冗談だって。俺が名前に本気で用済みだなんて言うはずないだろ」
「……嘘だ」
「傷ついたんならごめん、悪かったって。でも俺が本当に好きなのは名前だ」


あの時キスをしていた、女上司とはさっき別れたのだと彼は言った。「まったく、俺が遊びだって知ったらすっげえ怒ってさ、意味分かんねえよなあ」「…怒るよ、当たり前じゃない」「何、あいつに肩入れすんの」「……」少し怖くなって押し黙る。バックミラーに映った彼の表情は満足げで、非常に機嫌が良いようだった。

恐ろしくて身震いがするけれど、怖がっているのを悟られたくはない。「…あれは、何」「あれ?」「私の部屋を、あの子達が…」グルだったの、なんて恐ろしくて口に出来なかったのに彼はああ!と笑ってグルだったよと言い切った。


「要するに、試したんだよ」
「…試した?私を?」
「名前はどれぐらい俺を好きなのかな、って思って」
「……………」
「思った以上に傷ついてくれたからさ、友達を配置したんだけど立ち直りが早すぎた」
「…配、置?」
「しかも何、一ヶ月で他の男と飯食いに行くなんてね。俺はその程度かって」
「……………」
「楽しかった?友達と遊んだり、俺以外の男と飯行ったり」


にこにこと、本当に楽しそうにハンドルを握る彼の目的地は分かっていた。彼の家だ。回避出来る信号を全て回避して、彼は自分の家へと向かっているようだった。寂しかっただの、悲しかっただの、俺のことをずっと好きでいてくれると思っていただの……「何も喋らないけど、どうした?」バックミラーに映る目が私を見た。私はもう、まともな目で彼を見ることが出来そうにない。


「名前、その目は何?言いたいことがあるなら言っていいよ」
「……私が傷つくのが嬉しいみたい」
「あ、バレた?多分、好きな子はいじめたくなるってヤツ」


さっきの顔は最高だった、と口元を緩めるその表情は見たことがないぐらいに楽しそうで、同時に酷く歪んでいるように見えた。「さっきの顔、って…」「俺が部屋に入った時」……心底恐怖したあの瞬間が、どうやら彼のお気に召したらしい。なんて歪んでいるんだろう。彼はとても優しいと思っていた。…思い込んでいた。優しかったはずなのに、私はただ気がついていなかっただけらしい。

逃げなければ、と頭が警報を鳴らし始めた。拘束されているわけでもない。私が乗せられたのは後部座席で、彼の手が届く範囲ではない。車のロックの位置は探さなくても知っている。「あいつら、俺の事が好きらしいんだよな」彼は饒舌に喋っているけれど、集中したら気が狂いそうだ。もうすぐ通る通りを横断すれば、そこから先には信号がない。

遠目に信号が見えると、微かに緑色が光っていた。「お前に嫌がらせされてる、って嘘吐いただけで色々やってくれたよ」体中からどっと冷たいものが湧き出す感覚。同時に、心臓が抉り出されるような緊張感。私はこのまま連れて行かれたら、どんなことをされるんだろう。考えるだけで恐ろしいそれは、ひしひしと肌を伝わっていた。叩かれた頬が鋭い痛みを脳裏に蘇らせてくる。怖い。…怖い。


「……と、ああクソなんだよ…変わるんじゃねえ」


トーンの違う低い声が彼の口から吐き出された。前の車がゆるゆると速度を落としていっており、彼もそれに従うしかないようだった。あ、と思わず漏れた声は車の音に掻き消された。信号の光が緑色から、赤色に変化して車を止めた。横断歩道を渡ろうとする人影がボタンを押したらしい。男の人が携帯電話を耳元に宛てたまま、歩き出すのを視界に捉えた。


「なんだ、あいつ南沢っぽいな…お、名前逃げようとしてる?」
「……っ」
「逃げてもどうせ追いつくし、また叩かれたいんなら開けろよ、ほら」


ハンドルから手を離して、余裕の表情で私をバックミラー越しに見つめる彼の視線をひしひしと感じていた。会社のやつに見られたくないだろ、と楽しそうに笑う声を背後に震える指でドアのロックを解除した。あとはレバーを引いてドアを開けて走り出すだけ。

それだけなのに体はしっかりと固まっていて動かないのだ。俺のことが好きだから出たくないんだよな、と確認するように、すり込むように囁く声が脳に染み込んでいく。「名前」「名前」「行かないよな」「痛いのは嫌だろ」「別に何もしない」「前に戻るだけだ」「好きだろ」「好きだ」――たった数秒で体は、見えない何かに縛られて身動きが取れなくなっていた。満足そうに頷く彼は、窓を開いて外に顔を出した。


**


「いやそこは送れよ」
『電車の時間があるだろうと気を遣われた。苗字はいいやつだな』
「…なるほど、送り狼になる度胸は無かったと」
『いや、違う。苗字とは友人になった』
「は?」
『話してみれば案外いけるものだな』
「ちょっと意味分からねえぞそれ…」


兵頭の残した仕事と自分の残業で、すっかり遅くなってしまった夜道。通りを走る車もそこそこで、兵頭の報告を聞きながら歩く。友人になった、の意味がよく分からないが兵頭は名前と意気投合したようで随分と機嫌が良さそうだった。からかってもそれらしい反応は見せない。


「何、友達から始めましょうってわけじゃねえの」
『ああ。良い友人になれそうだと』
「……なーんのために俺は頑張ってたんだ?」
『俺と苗字の友情の為だな!』
「まあ、お前のそういうとこ嫌いじゃねーけど…っと赤か」


ボタンを押して兵頭の話の続きを促してやると、サッカーの話で盛り上がったようだった。『いつもの居酒屋があるだろう』「ああ、…レストランとかじゃなくてそこかよ」『馴染みの場所の方がいいだろう。随分気に入ってくれた』ぱちぱち、と反対車線の歩行者用信号が点滅を始めた。車の流れが緩やかになる。

要するに、兵頭はもう名前をそういった目で見なくなったということらしい。いいのか、と聞くと当たり前だと返された。『なんとなく、そういった目で見ることに抵抗を覚えた』「抵抗?なんでだよ」『下心を捨てねば、その…悪いだろうという気がした』なんだよそれ、と返しながら青に変わった信号に従って歩き出す。心の奥底で安堵の溜息を吐いたのは俺だろうか。


『で、お主はどうする』
「俺?」
『好敵手が減ったのだぞ、喜んでいるのだろう』
「ライバル?……は?いや別に俺は苗字が好きってわけじゃねえぞ」
『随分意地を張るのだな、南沢』
「意地じゃなくて本心だって」


そう、好きだと思っているわけじゃない。多少気がかりで、あとそれから――傷ついた姿が、こう…捨てられた犬とか、猫を彷彿とさせる?いや違う。でも確かに名前には気軽な気持ちで手を出そうとは思わなかったし、気を使わなかった。使おうと思わなかった。優しい言葉で騙されそうにないなら、きつい物言いで興味を引こうとしたのかもしれない。

好きではない。嫌いではない。けれど、無関心でもない。分かんねえなあ、と言うと電話の向こうで兵頭が笑うのが聞こえた。『興味はあるのだろう』……否定はしない。他人を頼れないように縛られた名前が、縛られずに笑う姿を見たいとは思う。じわりと兵頭を羨ましく思い、電話を切ってやろうと耳元から携帯を離した瞬間だった。


「よう」
「……、何やってんだよ」
「何って、一人寂しそうに歩く同僚に声を掛けてるだけだろ」


開いた車の窓から話しかけてくる顔に、こめかみがぴくりと動く感覚があった。名前の"元"彼氏野郎と俺は同期だったりする。なんだよこんなところで、と思いながらも顔には出さずに兵頭との通話を切断して車の方へ顔を向けた。ここの信号はもう数十秒保つ。


「うるせえよ。お前も寂しい独り身に戻ったって聞いたけど?」
「ああ、それ?ついさっきよりを戻したばっかだったり」
「…苗字、だっけ」
「おう、今乗ってる」
「……乗ってる?」


顔出せよ名前、と背後を振り返ったそいつの後ろで小さな影がぴくりと跳ねた。渡りきっていない信号が点滅するのが視界に見える。「南沢、信号変わるぞ」無視したまま目を細めて名前らしき影を見つめた。小さな目と、体が震えている。暗くてよく分からないかと思ったのだろうか。バックミラーに映る衣服はだらりとはだけていて、頬の当たりが少し赤い。刺激しないようにゆっくりと回り込んで、後部座席の窓から名前を覗き込む。

―――真っ青な顔で、縋るように俺を見ている


「おい赤だぞ南沢……何してんだ」
「名前、飯食い足りないんじゃなかったっけ」
「は?」
「あそこのパスタ、美味かっただろ」
「……パスタ?南沢、人の女に」
「食いに行くぞ」


迷いは無かった。空いているとは思わなかったが、簡単に開いたドアからころがるように名前が落ちてくる。運転席から伸ばされた腕が空を切るのが視界に入った。とっくに青に変わっている信号の中、クラクションが鳴らされ始めた。ドアは開けっ放しだ。

名前の腕を掴んで、そのまま抱き上げると簡単に持ち上げることが出来た。声を発さないのを都合の良いように解釈しておく。南沢、名前、といけ好かない声が背後から追ってくるのが聞こえたけれど走り出して路地に入ってしまえば、後はもう声が遠くなるだけだった。攫ってやった実感がじわじわと染み出すのを無視して、路地を駆け抜けてマンションに飛び込んだ。あいつは、もう追ってこれないだろう。


「だから好きってわけじゃないって」



(2014/08/26)

冷めてる彼のセリフ5:確かに恋だった



「落ち着いたか」
「……はい」


頷くと、まあゆっくりしてけよと南沢さんは自分用にとコーヒーを入れたカップをテーブルに置いて立ち上がった。「悪いな、牛乳ぐらいしか無かった」「いえ…」暖かいカップを両手で包む。白が私の顔を映して揺れた。私に用意されたのは、シンプルな黒いカップだった。部屋には女の人の気配がない。


「今度は真面目に話聞いてやろうか」
「くだらないですよ、多分」
「あのなあ、本気でくだらないって思うんなら助けないし部屋に入れないけど」
「…助けてくれて、ありがとうございます」
「攫ったってのが正しいな。……で?」


促されるけれど、すぐに言葉は出てこない。「……私が思う以上に、好かれていたみたいです」数泊置いて答えると、やはりあの時と同じようにふうんと南沢さんは興味無さげに呟いた。「で、あんたは」「私ですか」「あいつに好かれていて嬉しかった?」笑っているくせに目が真剣な、南沢さんからそっと視線を逸した。


「…怖かったですよ」
「怖い?」
「怖くて、怖くてたまらなかった」
「へえ。ま、詳しくは聞かねーけど…あんな目してたしなあ」
「あの時歩いてきてくれたのが、南沢さんで良かった」
「………まあな」


恥ずかしい気持ちは微塵もない。心底そう感じながら顔を上げると、南沢さんからすっと目を逸らされた。「あ、嫌でしたか」「…そういうわけじゃない」「どうやってお礼を言えばいいのか…」「くだらないこと考えんな」ベッド貸してやるからさっさと寝ろ、と隣の部屋を指差す彼は私にベッドを譲ってくれるみたいだった。床でいいです、と言い張っても聞いてくれそうにない。今日だけは素直に甘えることにして、シャワーも借りて、頬にも氷を当ててもらった。

これから先のことをどうするかなんて考えていない。彼のことも、明後日からまた行かなければいけない会社のことも、今は何も考えなくていいと南沢さんは言った。「明日、昼飯はあの店な」「…ありがとうございます」目を合わせてくれないけれど、お礼を言えば別に構わないと返してくれる。南沢さんは、やっぱり優しい人だ。



「たまには、熱くなるのも悪くないな」