「諦めるには早すぎる気がするだけ」
※暴力表現があります


名前ちゃんって、結構大人しいね。

そうなのかな、と聞いてみても曖昧な返事しか返って来なかった。確かに好戦的ではない、と思う。お化粧だってそれなりにするし、スカートだって短いものを履くけれど…それは全部、"彼"が好きだったからだ。ああして欲しい、こうして欲しい。彼の望みを叶えるだけで、嬉しそうに笑顔を覗かせるからそれだけで満たされていた。

本当は多分、スカートも長い方が好きだ。きっと自分は濃い色より、淡い色の方が好きだ。でもそれは"彼"の趣向ではなかったし渋い顔をされるだけだったのを経験していたせいで遠ざけがちになっていた。スーツは勿論真面目に着るけれど、やはり多少の着崩しを求められた。"彼"のためにやっているそれは、自然と自分に嘘を吐いていることになったのだろう。

名前ちゃんが遠ざけられていたのはきっとそのせいだね、と目の前の栗色がふわりと笑った。「なんとなく、スーツの着方とか、メイクとか見てるともやもやして……でもほら、似合ってないわけじゃないし、好きみたいだし」真新しいシャツとスウェットに身を包んで、髪を揺らしたその目が私を覗き込んでくる。


「別れたんなら、好きにしてみようよ。今更縛られることもないんじゃないかな」
「……そっか」
「うん、そうだよ。ほら!試しに今からやってみない?」
「今から?」
「道具ならいつでも持ってるし、私でいいなら教えてあげる」


ふんわりと、優しい笑顔が向けられることに安心感を得た。会話の弾んだファミレスから出る頃は終電ぎりぎりの時間で、他の二人はなんとか間に合ったけれど栗色の彼女だけ終電を逃してしまったのだ。この近くにホテルはある、と問うてきた彼女を家まで案内することに躊躇いは無かった。

「じゃあ、お願いしてもいい?」出来ることなら、何もかも変えてしまいたかった。彼が最期に選んだ人と、似たような姿で居たくないという気持ちが強く現れた。まずまずのアパートの一室で、ゆっくりと夜が更けていく。以外にも少し派手目なポーチから取り出される淡い色の化粧品類に、私の心は幼く踊った。


**


「苗字、少し時間をいいか」
「……ええっと」
「ああ、すまない。顔ぐらいは知っているだろう。兵頭司と申す」
「私に、何か」
「そう奥さずとも良いだろう。……その、食事をどうかと思ったのだ」
「………………食事?」
「明日の夜、予定は入っているだろうか」
「は、はいって、ません」
「ならば決まりだな。とても楽しみだ」


――周辺から彼の気配を意図的に消し始めて、一ヶ月ほど経た木曜日。

すっかり仲良くなった三人(特に、栗色の彼女)以外は私に友好的ではなかったけれど、でもそんなことがまったく気にならないぐらいに三人は私に良くしてくれた。彼女たちは皆、過去に男の人に裏切られたのだと言っていた。"彼"の影響が一番強いけれど…彼女らの意見を聞く度に、男の人がじわりじわりと苦手になってしまっていた私は唐突な食事の誘いに驚く間もなく、声を掛けられただけで硬直していた。

兵頭司。生真面目な性格と仕事ぶりで、若いながらも仕切る側に居る彼は私と同期だったはずだ。南沢さんとよく一緒にいるのを見かける。南沢さんはよく女の人と一緒にいるのを見かけるけれど、兵頭さんと南沢さん、それから女の人、という組み合わせはそういえば見たことがなかった気がする。……と、私はそれぐらいしか知らない。

兵頭さんが廊下に消えていく後ろ姿を放心状態のまま見送ったあと、すぐに現れた栗色が視界で跳ねた。「ねえねえ、兵頭君と食事に行くの!?」「…行く、のかな」「彼、きっと真面目すぎて面白くないよ。それに男の人なんてみんな一緒だし、」やめておいた方がいいんじゃない、と眉を潜めた彼女の言葉に、すぐに頷くことは出来なかった。

くだらない、と誰かの声が頭の中で響いた。――あ、これ南沢さんの声だ。そうだよ、他人の恋愛なんて第三者からすれば大抵、どうでもいいことなんだ。だからこれは当事者である、私の意思だけで決めなくちゃいけない。

兵頭さんと話したのはさっきが始めてだけど…真面目なのは、傍目から見ても分かる。固い口調だけれど、彼とは目の色が違った。澄んだ、真っ直ぐな目で見据えられた。きっと普通に食事に行って、他愛のない会話で終わるんだろうという確信が生まれた。「ねえ、名前!やめときなよって」栗色の髪がせわしなく揺れる。


「ねえ、また騙されるよ」
「兵頭さんは大丈夫な気がする」
「学習しよう、名前。酷いことされたんでしょう、男に」
「あの人に酷いことをされただけで、…別に男の人全員にされたわけじゃないし」
「名前!」
「私、まだ色々諦めたくないのかも」


浮かんできたのはパスタを目の前に、くだらないと私を嘲笑った南沢さんの貼り付けたような笑顔だった。長く会話をしたのはあの日が始めてで、最近はすれ違った時に頭を下げる程度だけれど……それでも、生半可に慰められるよりは随分と気が楽になったと思う。彼は私のことに関心がない。だからこそ、私は勢いで全て話してしまったことを後悔しないのだ。あの時確かに私は南沢さんに救われた。見せかけの笑顔は、普段の彼の女性用の笑顔とは違っていた。

ああもう、騙されないでよ!と数秒ほど肩が揺らされた。「とにかく、きちんと考え直した方がいいからね!」ポケットから携帯を取り出して、見慣れた緑色の画面を表示させながら彼女は自分のデスクに戻っていく。そういえば南沢さんは最近、毎回別の女の人と親しげに会話をしているのをよく見かけるようになった。少しだけそれが気になるのは、怖くて誰にも言っていない。きっとただ、私の奇妙な欲が身勝手に訴えているだけだ。南沢さんは、別に私が好きだからあの時声を掛けてくれたわけじゃない。


「諦めるには早すぎる気がするだけ」



(2014/08/23)

冷めてる彼のセリフ4:確かに恋だった



金曜日はすぐにやってきた。案外緊張してしまっていた私は、多分面白くもなんともなかっただろう。その日は三人が少し余所余所しかったと今では思う。でも、そんなことが気にならないほどに私は緊張を覚えていた。

待ち合わせていたロビーで顔を合わせた瞬間、えも言われぬぎくしゃくとした空気がその場を支配した。"彼"とは何度もご飯を食べに行ったけれど、"彼"はすぐに私より先に歩き出したから私は付いていくだけだった。少し気まずそうに、でも頬を赤らめた兵頭君(さん付けで呼ぶと、堅苦しいし同い年だろうと言われた)はこういったことに慣れていないと言ったあと、行きつけの店があるのだと言った。歩いている間の会話は途切れ途切れだった。

案内されたのは小さな居酒屋で、兵頭君はよくここに来るのだと話してくれた。若干お酒が入ったことにより、お互いの口が回り始める。カウンターの横の小さなテレビがサッカー中継を映し出していた。兵頭君はサッカーをやっていたらしい。

南沢や一文字なんかもその時からの付き合いでな、と兵頭君は懐かしそうにテレビ画面に見入っていた。「苗字は、サッカーが好きなのか」「うん。小学校の時はプレイもしてたんだよ。男の子たちに混じって、ボール蹴ってた」「ポジションは?」「ミッドフィルダーだった。兵頭君は?」「ゴールキーパーだ。化身も使っていた」「化身!」思わず食いつくと、兵頭君が一瞬だけ呆けた顔をした。どうしたの、と聞けば彼はゆっくりと首を振る。顔を上げた兵頭君は穏やかな笑顔を浮かべていた。なにかが溶かされていく音がする。


「いや、随分と印象が変わった。…話しやすいな、苗字は」
「…………話しやすい」
「苗字?」
「そんなこと、初めて言われた……びっくりした」


まじまじと兵頭君の顔を見つめていた。何やら兵頭君の目線からは柔らかい、そう…普段は厳しいけれど本当はとても優しい父親のような。「苗字、」「う、うん!?」「今、俺の顔を見て変なことを考えただろう」「考えてないよ!」ぶんぶんと首を振って考えを打ち消す。でも兵頭君に親しみが沸いたのは確かなことだった。そして、それは彼も同じだったようだ。

良い友人になれそうだ、と笑った兵頭君に頷いた。つついた角煮はとろとろだったし、串に刺さった鶏皮の旨みとマドラーを入れたままのグラスに少し残った、リッキーは十二分に私を満足させてくれた。兵頭君は送ってくれると言ったけど、帰宅路が逆方向だと知ってすぐに遠慮しておいた。兵頭君に終電を逃させるわけにはいかない。



アパートに戻ると家の扉の前で、栗色の髪が揺れていた。連絡行かなかった、と困ったように笑う彼女に断って携帯からアプリケーションを立ち上げる。吹き出し表示の横に数字。終電を逃したから泊めてくれないか、と連絡が来ていたのに気が付かなかったらしい。

楽しかった、と聞いてくる少し厳しい声の質問を躱しながら、以前彼女が使って…なんとなく使えなかったスウェットとシャツを取り出しに向かう。クローゼットの奥に仕舞い込んでしまったそれを探していると、がちゃりと玄関の扉が開く音がした。彼女は何も声を発していない。

まさか何も言わずにコンビニに行くわけもあるまいし、と……確認のつもりで仕切りを挟んだ玄関側を振り向いた。瞬間、目に入った信じられない人物に頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。何も言わずに土足のまま、ずかずかと家に踏み込んできた"彼"は私に真っ直ぐ歩いてくる。栗色の髪が、楽しそうに揺れている。

"彼"は何も言わなかった。何も言わず私の頬を叩いた。恐らく力を込められていたのだろう、一瞬だけ酷く熱さを感じたそれはすぐに大きな痛みとなって私を襲った。けらけらと栗色が笑い始める。現状を把握することは出来そうになかった。楽しかったか、と"彼"は私の耳元で囁いた。同時に、腕を掴んで捻り上げた。そうして私に無理矢理キスをした。

逃れたいのに、痛みが邪魔をする。抵抗しようとするのに恐ろしくて出来ない。やがて唇が開放されたかと思うと、"彼"が何事か栗色の彼女に支持を出していた。はあい、と随分親しげに"彼"の名前を呼び捨てした彼女は私の部屋を漁り始める。状況を把握出来ないまま、掴まれた腕を解けないまま、私は無理矢理立ち上がらされた。引かれる腕に抗うことが出来ない。

玄関を出ると、いつも栗色の彼女と私と一緒にいた、残りの二人が入れ替わりで私の部屋に入って行った。楽しそうにはしゃぐ声と、ガラスが割れる音がどんどん遠ざかっていく。階段を裸足で降りた私は無理矢理車に詰め込まれた。




私の周辺ではペシェとかカシスがよく出ている気がします。赤系統の色がやっぱり人気が高いのかなとか。個人的に美味しそうだなあと思うのはミドリなんですけど、生憎未成年でした。