羊の牙を尖らせましょう


「聞いてよナマエ!明日、バカ兄貴が帰ってくるって!」


顔を合わせるなり開口一番、花が咲いたような笑顔でマヤが叫ぶものだから、ナマエは思わずぽかんと口を開いたまま、一瞬だけ固まった。目覚めてからすぐは笑うことの少なかったマヤが、まるで昔のように、心から嬉しそうに笑う表情をナマエが見たのは久しぶりだった。

ナマエがクレイモランの神父を通じ、カミュに頼まれ、長い眠りから覚めたばかりだというマヤの世話をするようになってしばらく経つ。まだ万全の状態ではない体のマヤだが、それでも目覚めたばかりの頃に比べれば随分と回復した。一日に三度の食事と、回復魔法による日々の治療、――そして精神的な支えである、兄の存在のおかげだろう。お宝や冒険に夢を馳せる、マヤがしかし一番楽しそうに話すのは、いつだって彼女の兄の話であることをナマエはよく知っている。


「体調はどうだ、だってさ!もうピンピンしてるよ、バカ兄貴!」


手に持った便箋を大切に胸に抱え、マヤは嬉しそうに飛び跳ねる。テーブルの上に置かれた封筒に付いた、消印は一週間ほど前のことだ。マヤが兄のこと――カミュのことを大切に想っているのは一目瞭然だ。今でこそクレイモランで神父に引き取られ、シスターをしているナマエだが、元々はナマエもバイキングに拾われた子供の一人だった。幼少期の一時期を共に過ごしたナマエは、カミュとマヤのことをよく知っている。自分と同じように親を亡くし、兄妹共にバイキングで育ったこと、首飾りの呪いのこと。カミュは一度、首飾りの呪いから逃げたこと。マヤの元を離れたこと。そして、ウルノーガの手中に落ちた、マヤの元へ戻ってきたこと。
カミュは今、なんと"あの"勇者の相棒として、世界を旅しているのだという。身体を治して、旅に出て、兄貴よりも先に世界中のお宝を手に入れてやるんだと、毎日のように豪語するマヤだが、やはりカミュが訪れるとなると込み上げる喜びを抑えられないのだろう。はしゃぐマヤは年相応で、本当に可愛らしい。

幼い頃から兄妹のいないナマエにとって、マヤは初めて出来た友達以外の、年下の女の子だった。年齢の同じカミュと共にマヤを世話をするにつれ、ナマエはマヤを本当の妹のように思うようになっていた。カミュが首飾りを得る前に、神の加護を受けていると言われ、クレイモランの教会に引き取られたあの日は今でもよく覚えている。冷え込みの激しい冬を越えた、春の風が吹くあの朝の澄んだ空気のにおい。たったひとり、バイキング達の元でこき使われる生活から抜け出すというのに、笑顔で送り出してくれた、二人の笑顔。

長い時間離れていた反動なのかもしれないが、マヤと再び過ごすようになり、ナマエは自分の考えがおそらく、カミュとは違う方向に歪んでいっているのだろうと思うようになった。大切な、大切な、妹のようなマヤが可愛いが故に、血の繋がっている、たった一人の家族だというのにマヤを置いていったカミュに対して憤りを感じる瞬間があるのだ。口には出さないし、頭では世界を救う旅の重要性を理解しているつもりだが、ふとマヤが寂しそうに目を伏せるたびに考えてしまう。例え命掛けの旅でも、魔物が蔓延るこのご時世、どこに居たっていつ命が危険に晒されるかなんて分からない。旅に出て、そのまま帰って来られない可能性だって、ないわけじゃない。だったら無理にでも傍に置いておくほうが、――後悔しないのでは、なんて。


「……やめよう」
「どしたの、ナマエ。深刻なカオして」
「ううん。明日のお昼ごはん、カミュの分も用意しなきゃなって…何にしようかなって」
「おれ、いつものオムライスでいーよ!」
「…マヤがそういうなら」


ふるりと首を振り、ナマエはマヤのリクエストに応えるべく、買い物のリストを脳内で組み上げていく。マヤがウルノーガの手に落ちたとき、ナマエは黄金の石像に成っていた。カミュは黄金像の自分を見ているらしいが、ナマエにその時の記憶はない。――つまり、随分と久しぶりの再会なのだ。救われた礼を言うことは心に決めているけれど、マヤのことで、自分は嫌なことをカミュに言ったりしないだろうか。ナマエは不安に駆られている。冒険を休み、妹の傍についていてあげられなかったのか、とか。…いつ死ぬのか分からないなら、死ぬ直前まで一緒にいてあげるべきではないのか。彼はきっとマヤを危険なめに合わせたくないから、マヤに自分の時間を生きていて欲しいから、置いていったのだろうと考えながら、ナマエはマヤに聞こえぬようにちいさな、小さな溜息をつく。…どうか、マヤを連れていってくれないだろうか。何もできなかった自分がまたマヤの姉になれるなどと、大きな勘違いをする前に。


**


神に祈りを捧げ、いつものように支度をし、聖書を読み上げる頃には約束の時間が迫っていた。シスター、もーすぐ約束の時間!教会に飛び込んできたマヤに腕を引かれ、ナマエは教会のキッチンでマヤと共に昼食の準備に取り掛かった。研いだライスフラワーの実は聖書を読む前に、鍋にかけておいたからもうすぐ炊き上がるだろう。マヤとナマエは揃いのエプロンを纏い、それぞれ俎板と包丁を持った。トマトとピーマンを刻むのはナマエの役目。ウインナーと玉ねぎを刻むのはマヤの役目。


「っあー、しみるー!」
「涙が出るってことは、マヤはまだまだ料理が上手くなれるってこと」
「おれの食べるものはナマエが作ってくれるから、上手くなんなくてもいーのに!」


溢れる涙を拭いながらしかし、最後までしっかりとやり遂げようとするのは、大好きな兄が遊びに来るからなのだろう。…覚えている最後の記憶、笑って手を振り、クレイモランに遊びに行くと告げたカミュの表情を思い出す。あれから随分と時間が経った。ナマエがクレイモランの教会で変わらぬ日々を過ごしている間に、カミュは世界中を巡り、大きく成長しているのだろう。それが神に選ばれたカミュの運命ならばと思いながら、しかしどうしても拭い去れぬ羨ましさを覚え、ナマエは包丁でトマトのヘタをはじいた。小さな彷彿線を描いたそれは、シンクの隅の屑籠に綺麗な角度で飛び込んでいく。


「相変わらず、器用だな」


懐かしい声にナマエが、待ち望んでいた声にマヤが振り向くと、キッチンの入り口に少しほつれた旅装束を纏った、カミュが口元を緩めて立っている。「っ、兄貴!」「うお、マヤお前目ェやべーぞ!?」包丁を置き、飛び上がってカミュの元へ駆け寄るマヤの涙目に一瞬驚いたカミュはしかし、マヤの笑みにほっと息を吐いた。カミュの目にも明らかに、マヤの身体は回復している。…献身的にマヤのからだへ、魔力を注いでくれている人物と、こうして向かい合い、話をするのはあの別れの日以来だ。


「…カミュほどじゃないよ」
「謙遜するなって。――こうして話すのは、久しぶりだな、ナマエ」
「旅の調子はどう?」
「勇者の相棒は楽じゃない、ってトコだ」


カミュが来ると知った時のマヤのように、心底嬉しそうに笑いながら見せる笑みでそんな言葉を紡ぐあたり、カミュは今の生活を大事にしているのだろう。マヤのことも、と一瞬ムっとしたナマエだったが、ほら早く飯作ってくれよと自分の元に駆け寄ってきたマヤを促すカミュを見て、つまらないことを考えたなと首を振る。…複雑だ、本当に、なにもかも。あの別れの日には自分が、二人よりも先に歩き出した感覚があったのだ。競争をしていたわけではないけれど、二人から離れたことで、再会したときに胸を張れるだろうという謎の確証があった。バイキングの生活から抜け出したことは、姉として一歩先を歩いているような気分だったのだ。ところがどうだ、クレイモランで穏やかに過ごしていけたら、なんてありきたりな願望だけ残している自分を置き去りに、カミュもマヤも遠くへ行ってしまったみたいだ。マヤは世界中のお宝を得るというし、カミュは既に世界中を巡って、勇者と共に様々な風景を、人を、生活を、時間を見て成長している。

ずるいなあ、とトマトを刻みながらナマエは考える。マヤを置いていったカミュはずるい。何もない私にたった一人の、大切な家族を預けていくなんてずるい。心から楽しそうに笑う、その全てが羨ましくてたまらない。マヤはずるい。兄よりも、と広い世界に夢見るその瞳は輝いていて、時に眩しすぎるぐらいだ。何もないちっぽけな私の名を呼んで、本当の姉のように慕われるたび、自分の人間としての器の小ささを思い知らされる気がしてならない。


「…やべえ、めちゃめちゃ久しぶりだな、ナマエのオムライス」
「バカ兄貴がほっつき歩いてるあいだに、ナマエすっげー腕上げたんだぜ!」
「マジでか!こりゃー期待が止まらねーな!」


熱したフライパンに溶いた卵を落としていく。隣では得意気なマヤが、ライスと具材を炒めるべくフライパンをふるっている。昔のようにきらきらと輝くカミュの瞳に見つめられ、微かに指先が震えたことに彼はきっと気付かないだろう。
黄金色に焼き上げたふわっふわの卵を、マヤの炒めたライスの上に重ねる。ほかほかと湯気ののぼるオムライスは三人分。それでは久しぶりの再会を祝して。揃って手を合わせ、積もる話もそこそこに、まずはとスプーンを手に取るカミュとマヤ。


「はー……うっま……」
「さすがナマエだな…オムライスにかけては右に出るやつがいねー」
「なんつーか、…おふくろの味ならぬ、ナマエの味だよな」
「バカ兄貴のくせにいいこという」
「うるせえ」


隣り合って座り、競い合うようにオムライスを口に運ぶカミュをマヤを見守るナマエの心の奥底では、今なお複雑なものが少しどろりと渦巻いている。カミュとマヤと最初は同じ場所にいたはずなのに、どうして二人とはまったく違う人間になってしまったのか。私ももっと大きな夢を、抱けていたかもしれないじゃないか。今からでも抱けばいいのかもしれないけれど、それにはもう遅すぎるような気がしている。昔に戻れたら、だとか、私も一緒に行きたい、だとか。そういう風に思うという話でもなくて。


「ねえカミュ、マヤ」
「ん?」
「お?」
「帰って来たらいつでも食べさせてあげるから、いつでも帰っておいでよ」


――全ては神のお導き。二人が旅立ち、私がここで二人の帰りを待つ役割を神に与えられたというのなら、全てを呑み込みそれに従うほかないのでしょう。一緒に外の世界へ出ていく勇気をもっていない、臆病な私は一人でここにいたい。ここであなたたち二人が、帰って来るのを十字架に祈りながら、呼吸をやめぬ生き物でありたいのです。


20170914/ユリ柩