世界で一番幸せな日


人間の短い一生のなかで、自分は世界で一番幸せだと感じる瞬間があるとするなら、勇者にとってそれは、魔王を討ち果たした瞬間であるのだろうか。


「いや、そんなことはないな」
「そうなの?」
「…最後の一撃、決めたときは…こう、魂が抜けるっていうのか。憑き物が落ちたっていうか」


ナマエのちょっとした疑問に、天空の勇者は首を傾げた。もう何年も前に訪れたその一瞬を思い返し、少しだけ目を伏せたかつての勇者は幸せではなかった、と小さく漏らした。「…幸せ、ってのは違うな。幸せだったのはその前にあった、あいつに全部奪われる前だったから…俺の全部を根こそぎ奪い去っていったやつに、ようやく罪を償わせられたな、とか。あいつの事情を知って、俺と同じ感情を味わったくせにお前だけなにもかも忘れるのは許せねえ、とか。…だからデスピサロが炎に包まれて灰になっていくとき、ようやく俺は解放されたんだなって思ったよ。解放されたから、ようやく…いや、普通に幸せになる権利は今も、あるのか知らねえけど」……―首を振り、もう兜を抱かない頭を掻きむしり、どう言えばいいんだろうなと微かに笑ったソロは、頭に当てた手をそのまま、髪を強く握り締めた。言葉を催促することの出来ないナマエは、静かにソロの次の言葉を待つ。


「…なんだっけ。世界で一番幸せだと思う瞬間?」
「うん。勇者としてでも、ソロとしてでも。失ってから振り返った瞬間じゃなくて」
「厳しい質問するな……まあ、…それなりに時間は過ぎたんじゃないか」
「きっと魔族にとっては瞬きするぐらいの時間だけど、人間にとっては長い時間だよ」
「その長い時間のなかで、世界で一番自分が幸せだと思ったことはあるか、か」


怒られるかと一瞬ナマエは思案したものの、ソロは案外真面目に考えてくれるようだった。目を閉じ、微かに口を開き、閉じ――…旅をしている時のことを思い出しているのか、少しだけ目尻を下げたその表情をナマエは深く、見つめて言葉を待つ。天空に選ばれし勇者は果たして、どんな瞬間を幸せだと思っていたのか。旅の最中の、些細な仲間との会話の狭間だろうか。マーニャに腕を攫われ、くるくると踊った街中だろうか。デスピサロを討ち果たしたあとの、エンドールでの盛大な宴会の瞬間だろうか。全世界から勇者として、称えられ表彰されたあの瞬間だろうか。


「…まあ、そうだな」
「うんうん」
「ナマエなら分かるだろ。当ててみろよ」
「えっ」
「はい、さん、にー、いち」


唐突なカウントダウンに思わずたじろいだナマエは少しだけ、ソロの悪戯っぽい青年の瞳から逃れようと身を捩る。「え、ええと…全世界を代表して、エンドールで王様に表彰されたとき」「はずれ」「じゃあ、ライアンが旅の仲間に加わって、導かれし者が全員そろったとき」「…ちょっと違う」「サントハイムで、アリーナの婿養子にって王様に頼まれたとき!」「困ったし、クリフトの目の前で頷くはずないし、断ったのは見てるだろ」首を振るソロに、分かるはずと言われたナマエは困ってしまった。先程まで言葉を待つ係だったくせに、もう立場がくるりと逆転している。


「なら、ううん…天空城で、お母さんに会ったとき」
「…本当に分からないのか?」
「今度こそ!村に、帰った日!…シンシアが現れた、あのとき!」
「まあ、一番近いは近いけど」
「違うの?」
「シンシアと会えたときは、…俺がようやく自分を許せた瞬間だったから、幸せとは違うな。近いけど」


さらさらと朗読をするように、想いを振り返るソロはナマエの言葉を待っている。「…ねえ、本当に私の知ってること?」――最後の答えにそれなりの自信をもっていたナマエは、ソロの思わぬ回答に眉根を寄せて首を傾げた。知ってるも何も、と少しだけ言葉を濁したソロが思い描く答えを知りたいと、ナマエは瞳に強く意志を込めて、共に戦いの日々を過ごしてきた勇者の瞳を覗き込んだ。ああ、だのうん、だの、微かに唸ったソロが最初に質問されたのは俺かと、小さく零して諦めたようにひとつ、頷く。そうしてソロはナマエに、困ったように笑ってみせた。言葉を待つ方に戻ったナマエは、そんなソロの笑顔から紡がれる言葉を一音残らず耳に届けようと、静かに、静かにそれを待つ。


「まあ、つい最近だよ。エンドールの教会で、俺は世界一幸せになれるって思った」
「…………っ!?」
「ナマエが、ドレスひとつであんなに変わると思わなかった。言わなかったよな…あの時、ナマエのこと見た瞬間、未来が存在するって分かった気がしたんだよな。旅してる間はそれなりに気を遣っても、やっぱ泥で汚れるだろ。髪だって常に綺麗に整ってるわけじゃない。見た目でナマエを選んだんじゃないけど、やっぱ、…何て言えばいいんだろうな。失って、それを認めて、多分もう二度と手に入らないって思ってたものの一部が、自分を軸にして新しく構成されていくって考えたら、世界一幸せになれるのも夢じゃないって思った」
「…あの、ソロ。それって、つまり」


何度も瞬きを繰り返し、静かに言葉を待っていた時の余裕を全て無くし、真っ赤な顔でナマエはかつて勇者であった青年に、その言葉の意味を問う。「ほら、知ってるだろ」「…っ、知ってる、けど」かつては勇者の仲間の一人であった少女が、今は二人で共に囲む食卓に顔を伏せた。ナマエは、その瞬間のことをよく知っていた。それはナマエが世界で一番、幸せだと思った瞬間と同じだった。


20161202