星が落ちていく日


じゃあ、あのひとは―…テリーは明日経つのね、…そう、知らなかった。

いつもの市場、いつものやり取り。いつも買う野菜と肉を手にしたときの、愛想笑いの口元が引きつっていたであろうことを、ナマエは確かに自覚していた。目線は雲の流れを追いかけ、思考は今日の晩御飯は何にしよう、と些細なことへ意識を飛ばす。閉じた瞼の裏にちらつく、銀色を見たくないと心の奥底で鍵を掛けた。


――ああ、一生懸命縫い付けた星が、ほつれた糸を辿って転がり落ちていくみたい


ナマエの小さな自嘲は宵闇と夕暮れの隙間に溶けて、やがて浮かび上がる一番星の輝きに飲み込まれて跡形もなくその姿を消すのだ。馴染みの道を進むナマエの足取りに迷いはなく、しかし普段無いはずのふらつきに道端の花が蕾を閉じてゆく。
出会った。追い掛けた。突き放された。話した。話した。触れた。そして、意思を繋ぎ合わせた――…終わりの後の始まりを経て、ようやく二人の帰る場所は同じ建物になったのだ。なのにテリーは安息を、安定を、一生を共にすると誓った伴侶を置き去りにして一人、旅に出ようとしている。

棚の影から見つかった手入れされた剣、ベッドの下から纏められた荷物。机の中には封筒に入れる前の、書きかけの置手紙になる予定のもの。詰まる言葉をどうにか絞り出そうとしているテリーの姿が容易に想像出来たナマエは、きっとこの手紙が自分の手元に届く前にテリーの手によって、くしゃくしゃに丸められてしまうのだろうと小さく、小さく笑ってみせた。どんな理由を並べたって、きっとテリーは自分の中に湧き上がるその衝動を抑えられない。衝動に取ってつけた理由は全て、私への言い訳になると思うのでしょう。不誠実でありたくないと思うのなら、一緒に行こうって言ってくれる。…それだけでいいのに。


危険な目に合わせたくないと思われている理由が、愛故だと知っている。ナマエを失うことをテリーが何よりも恐れていることを、ナマエはちゃんと知っているのだ。テリーの選択はただの村娘の一人であったナマエをなるべく危険な目に合わせぬよう、安全な場所に置いて行こうという、…強き者が弱き者を守る際に取る最善の選択に違いない。


「…優しすぎる愛が、こんなに首を絞めるなんて」


出来ることならテリーの口から、仕事を辞めたと聞きたかった。今日彼は仕事に行くと偽って、どこへ行っているのだろう。台所に立ち、包丁を握り、目に訴える鮮やかな色彩を見つめながらナマエは涙を堪えるのに必死だ。旅に出ているあいだ、ナマエを助けてやってくれと挨拶に回っているのかもしれない。飼い始めた家畜のうちのいくらかを、私一人で管理できるぐらいに減らすつもりなのかもしれない。旅の最後の準備を整えるために、足りないものを調達しているのかもしれない―――…どれだか分からない、分からないから知りたい、けれど聞いても困らせるだけと知っていながら、どうして聞くことが出来るだろう。

戦う力を持っていれば、また違ったのかもしれないとナマエは思う。けれどテリーが自分にそれを、求めていないこともナマエは知っている。ナマエは剣を振るうことは出来ないが、変わりにその手で包丁を握ることが出来る。呪文を唱え、魔法を使うことはできないが、野菜を切り、火を通し、煮詰め、スープを創り出すことが出来る。小麦を挽き、捏ね、発酵させ、窯に入れてパンを焼き上げることが出来る。破れた衣服を繕い、元の姿へ限りなく近いものへと変化させることが出来る。テリーが自分を選んだ理由が、そういったところにあることをナマエはよく知っていた。テリーは自分にないものを持っているからこそ、ナマエを選んだのだ。ナマエはそれを誇りとしていたし、自分にあるものを磨き続けようとした。――今更その場凌ぎの戦う力を求めたところで、一体何を得られるだろう。


「…こんなことしか出来ないのに、これも愛って呼べるの」


ナマエの瞳の奥に浮かぶ、夜空から星が転がり落ちていく。縫い付けていたはずのテリーは、強さを求めて自分の元から旅立っていく。帰ってきてくれ、還ってきてくれと願いながらナマエはテリーの旅の荷物の中から抜き出した、手袋の解れを繕うのだ。なにもいらない、きっと。無事に帰ってきてくれると約束してくれれば、他に何もいらない。なのにその約束すら置かずに、貴方は旅立ってゆくのでしょう。ならばせめてどうか、この祈りを紡いだ糸で縫い付けて、あなたの心がこの夜空から零れ落ちぬよう祈るだけだわ。


20160902

君がそれを愛と呼ぶなら、の別視点。誕生日はテリーの旅立ちの一か月ぐらい前のイメージ。