「そこは、どのような場所でしょうか」


トビアス様、解放者様から預かった書面は確認せずともよいのですか。

部下のその一言にようやく、トビアスは自分が闇の領界から水の領界へ旅立つ時――ナマエから書面を預かったことを思い出した。ナマエはトビアス宛のその"手紙"という書面を、水の領界で読んでくれとトビアスに渡していたのだ。そういえばすっかり忘れていた、と懐から封筒を取り出したトビアスは座り込み、休む部下達から少し距離を置いて、ナイフでそのシンプルな白い封筒の封を切った。中には二枚ほどの、手書きの文字が並ぶ便箋が入っている。


『水の領界は、どんなところでしょうか』


…一瞬、便箋を取り出したトビアスはその便箋を元の場所に戻し、もう一度封をすべきではないのかと考えた。ところが手に持ったその時は既に、便箋から透ける文字を視界に入れてしまっていた。自分より小さなあの手の平が紡いだ文字に、心が揺らぐ。もし何か約束事を求めるような内容が記されていれば、それを裏切る可能性もなくはないのだ。ナマエが氷の領界から戻った時の、自分を見たあの瞬間の顔を覚えているからこそ、なおのこと。

白い封筒にはバランスよく、トビアスへ、と記されている。まだ拙いその文字は、ナマエが解放者の役割を果たす傍ら竜族とのコミュニケーションのために必死で覚えている最中の、竜族が扱う文字だ。ゆっくりと三つ折りにされた便箋を開きながらトビアスは、自分を水の領界へ送り出したときのナマエの笑顔を思い出していた。言いたい事がたくさんあるから、全部このなかに詰め込んでみたの。…手渡された封筒を見たのは自分と、近くにいた自らの主ぐらいであろう。

ナマエがこの世界の文字を、自分に手紙を書くためだけに、覚えたと期待するのはやめておいたほうがいいのだろうとトビアスは思う。自分に伝えたいことを伝える手段を、増やそうと毎日エステラやオルストフ様、ナダイア様のところに通っているわけではない、きっと。トビアスは言い聞かせながら、並ぶ文字を目で追うべく息を吸い込んだ。そう、約束をねだるような内容であることも期待しないでおけばきっと、そうはならない。きっと。多分。おそらく。


『さっき、水の領界を解放したとオルストフ様にご報告しました。トビアスがこれを読んでるってことは、無事、水の領界に着いたかな』


語り口調で始まった手紙の文面は頭の奥で、ナマエの声に変換される。


『どんな場所なんだろう。どんな人がいるんだろう。私も早く、行きたいって思います。同時に、いつも何が起きるか分からない場所にトビアスを一番に行かせてしまうことを、常に心苦しく思っています。そんなに丁重に扱われなくても、って息苦しさを感じるかな。たまにトビアスの、どこぞのトカゲの骨、って言葉を思い出します。トカゲの骨ぐらいが、丁度良かったのかもしれない。解放者でなければあなただけに、たくさん苦労をさせなかったのかも。今更言っても遅いでしょうか。
改めて、お薬の開発お疲れさまでした。マイユさんも本当によかった。マイユさんの婚約者、アロルドもきっと、トビアス達が作ってくれた薬のおかげでよくなることと思います。本当にありがとう。大切な人の命が救われることは、本当に嬉しいことです。

水の領界は、どんなところでしょうか。美しい場所でしょうか。それともとても、苦しい場所でしょうか。今の私はあなたが帰ってくることを待つだけのお飾りですが、とても心配ですのでどうか、無理だけはせずにいてくださいますよう。トビアス達が無事に帰って来れるよう祈っています。きっと帰ってきてなんて、約束を取り付けることはできないのでせめて、祈っています。

長くなりましたが、目を通してくれてありがとう。捨てられていないってことだよね、ほっとしています。最後に、直接口では言えないので、これだけ。

この世界を全て解放した暁には、一緒においしいご飯を食べに行きたいので、考えておいてくれると嬉しいです。それでは。』


――全てに目を通し、元の通りに重ね、再び三つ折りにして封筒の中に便箋を戻したトビアスはそれを懐に仕舞い、ふう、と大きく息を吐いた。「トビアス様、どうされました?」「…なんでもない」部下の声に首を振ったトビアスは封筒を仕舞った、神官服の胸元に手を添える。そこには確かにエジャルナに残してきた、解放者の祈りが込められていた。触れた指先の温度を思い返したトビアスは、眼前に広がる景色を伝える手段を持たない代わりに、そっとナマエの姿を瞼の裏に映し出す。


「…悪くない、提案をもらった」


トビアスの口元が緩んでいた事実を、誰も知らない。


20160804

手紙でもなんでもいいので彼にメッセージを送らせてください好きだ幸せにする結婚しよう