とあるエルフの三秒前


これはとあるエルフ少女、ナマエの話。

元々親がおらず、引き取られる形でツスクルにやってきて。そこで周囲に馴染めなかったナマエには、常にともに行動する友人なんていなかった。学び舎の中での成績は上位にあれど、そこそこというあたりで落ち着いている。しかし潜在的な魔法力、それもかなりのものを秘めているとヒメア様に言われていたおかげで周囲の師達は期待の籠った眼差しでナマエを見ることが多かった。

ナマエは人見知りだった。巫女姫ヒメアにその体に秘められた力を見抜かれ、師たちに期待の目で見られ。上手くその期待に応えられないことがナマエの人見知りに拍車をかけた。一緒にお昼を食べようという同い年の少女の誘いも、授業で一緒になった少年から辞書を貸してもらっても。言葉をほとんど発しないナマエは、ツスクルの小さなコミュニティの中で随分と浮くことになった。そんなナマエを気にして時折、天才や秀才、神童だと持て囃される(アサナギ曰く、彼のライバルである)エルフの少年が声を掛けてくれたりしていたのだが…その少年すらナマエの警戒心の壁を溶かすことはなく。彼もナマエに直ぐ逃げられていた。(後にその彼は古代呪文の実験中に命を落としてしまう。実験はアサナギが継ぐことになったが、それはまた別の話)

そんなわけでナマエはツスクルのありとあらゆる隠れ場所に通じていた。空いた時間、ツスクルに来てから毎日のように、人から隠れる場所を探していたからというのもあるだろう。ナマエがツスクルの地下で封印の札を何枚も貼られ、巨大な南京錠と魔法陣で封じてある扉に辿り着くのは早かった。複雑な魔法陣は見分深いエルフの魔法使いがその知識を全て使って施したものだった。それは解けないパズルに近いもの。
ナマエはそれに酷くそそられた。ここを開かなければならないという、謎の使命感すら生まれていた。心のどこかでナマエは臆病な自分を変えたいと思っていたのかもしれない。この封印を解けば何かが変わる、自分が変われる、と思ったのかもしれない。何かをやり遂げることで、自分を認めたかったのかもしれない。

ツスクルでの学びの時間とは別に、一人の時間の半分をその扉の前で過ごした。魔法陣の一部を、古代アストルティア文字を解読するために一人の時間の残り半分を書物庫や知恵の社で過ごすことになった。成績はほどほどをキープ、文学の知識は人一倍となってゆく。ナマエが扉を見つけたのは春の終わりごろ。

―――開いたのは、夏が過ぎ、秋が終わり、冬の寒さが残る次の春の先。

一年でその封印の全貌を解き明かしたナマエの努力は村一番の神童と持て囃されたエルフの少年と、少年が行っていた呪いを打ち消す古代呪文の研究と…肩を並べられる功績だっただろう。人に知られるか、知られないか。いかに大きな功績を残そうと、記録する人間がいなければ意味はない。それを知らないナマエはただただ、開いた扉に一人喜んだ。消えた魔法陣、地に落ちた南京錠、一枚一枚、剥がれてゆく札。

扉の向こうに大きな期待を抱えていたナマエは、小さく扉を開いて落胆したのを覚えている。どんなお宝が、秘密の部屋が、眠っているのか。はたまた巨大なバケモノが封印されていたりするのか。恐怖を煽られたこともあったが、とにかくナマエは人とかかわることが出来ないのなら、現れたバケモノに依存したっていいと考えていたのだ。

ところがどうだ、現れたのは古びた本棚がいくつかだけ。

古びた本棚、まばらに置かれている何冊かの本。それらはまだ幼いナマエには、厳重に封印される価値などないと思われた。随分落胆したナマエは封印を掛けなおし、その日は扉の中に足を踏み入れること、本を手に取ることなく眠りに付いた。しかし次の日にはあれほど厳重に守られていた本の中身が、気になって気になってしょうがなくなっていたのだ。

エルフは用心深い。封印を施したエルフも、そしてナマエも随分用心深い性格だった。次の日からナマエは部屋に踏み込んだ瞬間に発動する魔法、つまりトラップの類の魔法や封印を疑って研究に没頭するようになった。師たちはナマエが何をしているのかは知らなかったが、研究に打ち込むのはいいことだろうと考えていた。巫女ヒメアは、何をしているのか気にしている様子だったが。
とにかくナマエは必要な知識という知識を吸収し、扉の向こうの研究を続けた。続ければ何かが変わると心から信じて疑わなかった。研究に打ち込むナマエの周りには当然、声を掛ける存在はなし。ナマエは心から寂しいものを、部屋の研究で忘れようとした。


ナマエが再度部屋の封印を解き放ち、本棚の本に触れたのは更に一年が過ぎてからだった。部屋に入る前にトラップを確認したナマエは自分の用心深い性格に、見たこともない親に心底感謝した。部屋にはありとあらゆる緊急時用の対策が張り巡らされていた。
解除できないもの、トラマナで回避できないものは除けて。ナマエは部屋の一番奥に置かれた、本棚まで、自分専用のルートを決めた。発動しないと分かっているトラップだというのに、トラマナの発動を確認しているのに、部屋を歩いているあいだの心臓は破裂しそうだった。
ようやく本棚に辿り着き、本棚の封印を解いた(扉の封印よりも、随分簡単な封印だった)ナマエは本を手に取り、開き、これほどまでに厳重な封印が施されている理由を知った。同時に本を持つ手が恐ろしく震えたことは、ナマエの記憶に刻まれている。

本は所謂、禁書と呼ばれるものに違いなかった。禁じられた呪文、術者の命を削る呪文―――…授業で聞いた禁術と呼ばれるそれらについての説明を、ナマエはしっかりと覚えていた。いまだ研究の進んでいない古代呪文についての記述、魔界の民のごく一部、魔王級レベルの存在が扱う新しい種の魔物を作り出す呪文についての解説。生物に一定の魔法力を与えることで、身体の構造を変えてしまう研究についての論文。これを本に纏めるほど、禁術に手を染めたエルフがいるのかとナマエは心底恐ろしくなった。同時に纏め上げられている魔法のいくつか、術者の命を削る代わりに恐ろしい威力を持つ魔法を習得出来そうだということに気が付いたのだ。

研究者は好奇心で出来ている。用心深く、慎重なナマエもそれは変わらない。根本にあるものはそれだった。いつか友達や守りたい人が出来たら、いつかその人が命の危険に陥ったら―――自分の費やした時間に得たこれで、助けることが出来るかもしれない。ナマエは気が付けば毎日、禁書を読み込むようになっていた。本棚には何冊かの本しか置かれていなかったが、全てを全て覚えてしまうにはやはり時間が必要だった。いくつかの魔法の契約も、部屋の中で密やかに行われた。案外あっさりと終わってしまって拍子抜けしたものだが、用心深いナマエは部屋を出るときも中にいるときも確実に、扉に封印を掛けることを忘れなかった。回数を重ねるごとに完璧に近づくナマエの封印は、大人の目を確かに欺いていた。

それからまた一年が過ぎて。

ナマエは試練を終えた。問題なく、一度目で合格した。一人前の証を得たナマエは、これからどうすべきか決めあぐねていた。迷った時ナマエは禁書の部屋に行くようになっていた。
一人前の証をヒメアから授かり、また自分が禁術に手を染めたことを見抜かれないまま村を旅立てる事に安堵していたからか。その日ナマエが部屋を出たとき、彼女にしては珍しく封印に綻びを作ってしまった。その日に限って丁度その禁書の部屋を見回りに来た師の一人が、それに気が付き深夜だというのにツスクルの村は大騒ぎになった。
ナマエは自分の性格を知っていた。問い詰められればおそらく自分は、正直に告白してしまうだろう。しかしナマエは既に知識として禁術を得ていたし、知識を追い求めることは悪いことではないと思っていた。何より自分はこの力を、悪用するつもりはどこにもない。…ただ、誰かに必要とされるには力が必要だと。

騒ぎが一度落ち着き、とにかく後日改めてこの問題について話し合おうという師達の声から逃れるように、ナマエは嘘の書き置きを作り少ない荷物を纏め上げた。騒ぎのことなど知らないふりをし、両親を探しに行きます、と書き置きを残して朝の早い時間にツスクルを出る。アズランに辿り着いたのは二日後。初めて乗る大地の箱舟に揺られ、世界の広さに目を見開いて。降りたのはグレンの城下町だった。



初めて見る、エルフ以外の種族。特にこの大陸に多く住む、オーガはエルフよりもがっしりとした体格で赤い肌を持ち、多くが巨大な武器を携えていた。ナマエはエルフの方でも随分小さい方だったが、オーガと並ぶとそれが更に際立った。且つ、見知らぬ土地でおびえていたのが周囲に丸分かりだったのだろう。お上りさんなナマエの鞄が、浚われたのは酒場の前だった。突き飛ばされて転がったナマエの手から、小さな鞄が奪い去られる。

待って、と声を発したつもりだった。漏れたのは小さな声にならない息だけで、恐ろしさに立ち上がって追いかけることも出来なくなっていたのをナマエは知った。恐ろしい、こわい、出てくるんじゃなかった、でもそうしたらどこに行けば、親なんていない、死んでるのを知ってる、子供だからって諦めきれてないわけじゃない、と。

小さくなっていくひったくり犯の背中を目で追うことしか出来ないナマエの視界がじわりと滲んだ瞬間、ひったくりの動きが止まった。あれ、なんで逃げないんだろう。ナマエは思わず目元の涙を拭い、おそるおそる立ち上がる。
引ったくりの男の手、ナマエの鞄を持っている手が捻りあげられていた。「…情けない。気高いオーガの民が引ったくりか」凛とした声が耳に届く。初めての声だというのにナマエは心にぽう、と暖かいものが宿るのを感じた。ツスクルの村では誰の声も、自分の心に響かなかったのに。
流れる金色の髪が太陽のような輝きを持っていて、ぱちりとかちあった視線は海のように深くて。一瞬だけその瞳の奥にオーガではなく人間の姿が見えた気がして思わずナマエは目を瞬かせた。そのあいだにひったくりの手からナマエの鞄は奪い返され、駆け寄ってきた衛兵が引ったくりの片腕を掴む。まるで演劇のようだとナマエが考えているあいだに、ひったくりは城の方へと連行されていった。


「大丈夫だった?」
「……はい」
「これ、君の鞄でいいのかな」
「そう、です」
「次は盗られないようにね」


君すごく可愛いから気を付けて、と目を細めたその人はナマエの肩に鞄をかけた。一瞬心臓が壊れるかと思うほどの微笑みと、言葉にナマエの顔が熱でどうにかなりそうになる。ありがとう、とナマエが口を開く前にそれじゃあ、と踵を返しその人は酒場へと入っていく。ありがとうって言いたい、可愛いなんてお世辞まで。随分強そうな人だった、背中の斧は冒険者なのかな、酒場ってことは仲間を探してるのかな…――私も連れていってくれない、かな!

ありがとうを伝えるため、仲間に入れて欲しいと頼み込むため、禁術を得たエルフの少女が酒場に飛び込む三秒前。


(2016.02.13)