駒繋ぎ


3.2序盤のネタバレあります


霞んで揺らぐ視界がやがて、絶対零度の氷の世界から見慣れた炎の世界を捉えた頃。思い出すのは解放者である彼女のことばかりだったことを、確かにトビアスは自覚していた。
使命が為、主が為。望んで足を運び踏み入れ、迂闊にも。……あのような者にここまでの痛手を負わされたのが酷く情けない。死神と呼ばれ恐れられていたのは確かに、…恐ろしいまでの強さだった。しかし納得は出来ない。故に、トビアスは唸り声を上げて痛みに悶えることしか出来ない。

エステラが息を呑むのが視界の隅に映っていた。見るな、と叫びそうになったトビアスは声を出すのすら困難であるほど、自らの負った怪我が大きいことに気が付く。情けないからでも、惨めだからでもなく。エステラが自ら見たことをそのまま、解放者である彼女――ナマエに伝えるであろうことが予測出来たからこそ。
予想の通り。エステラはナマエに氷の領界の話とは別に、自分の話もしたようである。薬で落とされた夢の中、あの死神の笑い声が響くなかで、トビアス、と扉越しに小さく呼び掛けるナマエの声は確かにトビアスには聞こえていた。

夢と現が混ざり合い、時にそれは信じられないほど残酷な光景を映し出す。ナマエの強さなら。選ばれし解放者の強さならば、無いであろうと分かっているのに。どうしても、死神の笑い声が耳元から離れることがないせいで、瞼の裏に映るのは、やがて蹂躙される自分ではなくナマエの姿になっているのだ。死神の愉しそうな笑い声が、ナマエを二度と手の届かない場所に連れていってしまいそうな錯覚を覚えた瞬間、トビアスはどうしようもなくナマエの名を呼びたい気持ちになった。呼んだのかもしれない。呻きの中で、たったひとつ。

どうしようと躊躇っていた足音は止まった。控えめな声は普段の、芯の通った声へと変わる。入るね、と宣言し迷いを振り切ったナマエは扉を開き、トビアスを見て一瞬だけ悲痛な表情を見せたものの、それを悟られることないように緩やかな速度で歩を進め始めた。「…トビアス」――…果てなく、果てなく。どこまでも果てなく優しい声だとトビアスは思う。耳元で響いていた死神の笑い声が止み、瞼の裏で死神に嬲られていたナマエが目の前に立っていることに、トビアスは酷く動揺する。次に、身体を起こそうとして体中を走る激痛に気が付いた。

痛みに声を上げまいと、必死に歯を食い縛ったのはどちらだったか。


「ごめん、トビアス」
「……解放者、さま?」
「ほんとに、だって…私がトビアス達に先に行かせたりなんかしなかったら、とか。私が一緒に着いていたら、トビアスはこんな怪我をしないで済んだかもしれないとか…!考えて、考えすぎたみたいで。……エステラに、氷の領界へ旅立つのは二時間後だって言われたけど……トビアスに謝れないまま、行きたくないって思って」
「謝罪など、」
「私が解放者だから、トビアス達は私のことを守るために先に行くんでしょう?だったら解放者じゃなければいいって思うの!もし、…もし普通の冒険者で。解放者でもなんでもなく、トビアスと知り合ってれば………友人の一人として、友達が心配だからって、一緒に着いて行けたのかもしれないとか。着いて行って、守りたかったとか」
「…解放者様は随分と、私を侮っていらっしゃるようだ」
「っ、違う!侮ってるわけじゃない!トビアス、私は…!」
「冗談です、解放者様」
「……トビアスは強いよ」
「ですが、あなたの方がお強いのは事実です」


声は掠れ、痛みはあの死神の笑い声の幻聴と共に体中を軋ませる。違うの、そういう意味じゃなくて、守りたいけど、でも、と。言葉を探すナマエがいじらしいと思った瞬間、痛みは残れど幻聴は遠くに追いやってしまえていた。「…守りたいと思うのは、貴方だけではないのです」「でも!……でも、守られるばかりだったせいで、こんな」ナマエの瞳が揺れている。トビアスを映し、消え入りそうな声でごめん、と呟くこの少女がどうしてここまで謝るのか。どうして自分の怪我を、こんなにも自身の責任のように背負い込もうとするのか。――トビアスは、その理由を知っている。恐らくナマエも知っているだろう。


「解放者様、私は解放者様が……ナマエ様で良かったと思いますよ」
「っ、でも!竜族の救世主が、――…守れないなんて」


好きな人一人。小さく掠れたその部分をナマエは聞かせたくなかっただろうと、聞こえなかったことにした。一人の神官と、竜族を救う解放者。立場の違いは目に見えている。ナマエはきっと本来心のどこかで、解放者でなければと思うことがあるのだろうとトビアスは考える。その理由が常に、自分を中心にして回っていることを知っている。

竜族のために。トビアスは、ナマエに解放者であることを望んでいなければならない。トビアスが望んでいるあいだは、ナマエは解放者であるだろうからだ。ただどうしても、…どうしても。種族も何も関係なしに、自分という一人を好いて守りたかったと泣きそうな顔をするナマエを呼ぶのに敬称を付けたくない気持ちが。情けない姿を見せてしまった後悔が。守りたいと言われたことに、純粋な喜びを感じている浅ましさが。痛みに悲鳴を上げる腕を動かして、ナマエの手のひらを掬い取った。横になったままで申し訳ありません、囁くと、ナマエが目をぱちぱちと瞬かせる。


「解放者様、貴方が氷の領界をも解放し、新たな領界への道を開けることを祈っております」
「……うん」
「死神は非常に恐ろしい。十分に、ご注意を」
「わかってる」


目を伏せたナマエが掬い取られた手の平を、控えめな力で微かに握り返すのを感じていた。この小さな解放者様が全ての領界を解放し、本当に竜族の救世主となった時。差し伸べられる数多の手のなかから自分の手のひらを握り返し、自分の元へと一番に飛び込んできてくれるのならば。教団に捧げるつもりでいた生涯を、ナマエに捧げることが許されるかもしれない。緩やかに閉じた瞼の表側で、行って来ます、と囁いたナマエの表情が少しだけ晴れていることを望みながらトビアスは再び、怪我を癒すための眠りへと。






(2015/12/28)

3.2ラスボス倒したらトビアス様に結婚申し込む話書くんだ…