願うことはただひとつ




「剣士様、いけません」
「………」
「…剣士様、お願いです。離してください…!」
「…………っ」


微かな抵抗の意味も、意思の理由も全て分かっていた。それでも、手を伸ばさずにはいられない。
少し腕を伸ばすだけで、指先が触れる位置に居るのが悪いと思った。「剣士様、」うるせえ。剣士様なんて、余所余所しい呼び方じゃなかっただろ…!掴んだ腕を引き寄せて、抵抗を全て力でねじ伏せた。壁に背を付けたナマエは唇を噛んで、目を潤ませて俺を睨んでいる。ヒューザ、と小さく掠れた声が俺を呼んだ。


「……ねえ、何をするつもりですか」
「知らねえよ」
「お願いだから、離――」


唇を塞ぐと、苦しそうな声が聞こえた。やめてください、と乞うナマエは俺の唇を噛んだりしない。変わりに静かな涙を流す、ナマエは何も喋らない。…なんでだ、なんでだよ。なんであんな男と結婚することになったんだよ。俺の事を好きだって言ったあれは冗談か何かだとでも言いたいのか?

塞いでいた唇を離すと、少し苦しそうにナマエは息を吐き出した。俺よりも背丈の低い体と、俺とは違う肌の色。ナマエには泳ぐためのヒレがなくて、根本的から作りの違う種族だということが思い知らされる。ナマエは人間だった。俺はウェディだった。

旅の途中で立ち寄った活気の溢れる王国の王女がナマエだった。確かにこれは許されざる恋だ。流れ者の剣士と一国の王女。でも確かにナマエは俺を好きになったと言って、宿を取っている俺の元へ通っていた。それは当然お忍びで、見つかることは許されなかった。最初から拒絶すれば良かったのか?そうすれば俺は、ナマエを好きになることが無かったかもしれない。

好きになったと打ち明けて、初めてキスをした次の日からナマエは姿を見せなくなったのだ。三日程は耐えたけれど四日目は流石に限界だった。気がついたら、ナマエが居ないことが酷く苦しく感じるようになっていて、それで……それで王宮に出向いたら、町の伯爵(しかも、かなり年の離れた男)と結婚をする支度をしているナマエがいて。


「……本当に、どういうつもりだ」


声が低くなってしまうのも、しょうがない事だった。小さく震えるナマエを煽るように、ナマエの顔の横に拳を叩きつけた。「なあ、ナマエ!俺は――…」お前を好きになってしまって、どうしようもないんだ。いきなり他の男に奪われる、そのビジョンが想像出来なかった。

目の前の白い肌が、荒く息を吐いて少し赤くなった頬が、綺麗なその目が、俺だけのものだったその全てが、明日から他の男のものになる。


「…ごめん、なさい」
「どうして謝るんだよ」
「……最初から決まってた事を、黙ってた」
「ンなことはどうでもいいだろうが!」
「っ、だって!だって、本当に、」


本当に好きになってくれるなんて、と小さく呻くようにナマエが言葉を絞り出した。「…思わなかったの。一目惚れで、最初で最期の、最期の自由な時間を全部、最初の恋に捧げるつもりで…疎まれてもいいから、ヒューザが優しいから甘えて…どんどん好きになって、私だけでいいって思ってたの。でも、ヒューザが、好きって、私を……言ったから、もう手遅れになっちゃったって思ったの。私、ここから逃げられないよ!」最期は叫ぶようにして、息を吐き出した後にナマエは俺の服の裾を掴んだ。そのまま、顔を胸元に押し付けられる。

心臓が詰まって、息が出来なくなりそうだった。「ウェディはウェディと、人間は人間と結ばれるべきだって…あの人は言うの。私のこと、とっくに知ってたって。バカだって言うの」ヒューザと私は好き同士になれたのにね、と囁くナマエの顔は見えなかった。変わりに小さな嗚咽の声が聞こえたから、今度はもう、何も言えなくなった俺はナマエを抱きしめることしか出来ない。

連れ去ってやりたいと強く強く、何度も何度も考える。その度に無理があると考える。おとぎ話や空想の世界ではない現実では、一国の王女を連れ去ることに対してのリスクが大きすぎるのだ。好きになって願うことは、相手の幸せただ一つだった。危険に晒したくないと思うのはお互いだった。ナマエが何不自由なく、幸せに(例え、そこに俺がいなくても)暮らしてくれるのなら、俺はそれがいいと思う。


願うことはただひとつ



(2014/07/09)