あなたが来るまでの永遠




食べて、眠って、飲んで、眠って。そうしてまた食べて飲んで、冷たい床に這いつくばって眠る。

飲み込んだパンはかさかさで、喉を伝う水分には時折砂利が混じっていた。体は人間としての成長を止めてしまっている。かつては幼子ながらに自慢だった長い髪も、サファイアみたいだとお母様から褒められた瞳も、鏡には映らなくなっていた。目の前でクヒヒ、と気味の悪い笑い声を立てた名前も知らない魔物が笑う。この魔物に呪いをかけられて、既に何年の時が過ぎたのか私には分からない。

まるで腐ってまったみたいに、髪の色も目の色も体の色も、じわじわと侵食されていった私の体は今や汚くなってしまって目もあてられないほどだ。なのに精神だけは人間のまま、ここまで成長してしまった。私をこんな風にした目の前の魔物は――幼かった私を気に入りそのまま連れ去ってしまったのだ。ああ、あの日のことは忘れもしない……ローレシアの国から帰ってきたばかりで、疲れていたっけ。湯浴みをする前にベッドに潜り込んじゃって、そのまま気がついたら眠っていて…でもいつまで経ってもばあやが私を怒ることはなかったしメイドが私を起こしにくることもなかった。満足のいくまで眠った私が目覚めた時にはもう、全部が手遅れになっていた。見知らぬ場所、周囲を取り囲む魔物、人間としての生活の全てと尊厳を奪われた自らの体。魔物の隙をついて逃げ出して国に戻った時、私は既に死んだことになっていると知った時、そして――殺されかけてはじめてもう二度と日の目を拝めないと悟ってしまった。そうしてずっと、私はこの魔物と共に暮らしている。


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暗闇に紛れて食物を漁る。魔物は人肉を口にしろとでも言うのか、常に私に肉を差し出していた。人間も動物に分類されるのだから、種族的には動物のものなのは確かだろう。けれども私はそれを口にするのだけは絶対に…精神が人間のものである以上、それは禁忌だと思っていた。記憶の中の父と母に顔向けが出来なくなってしまうのだけはどうしても恐ろしくて出来なかった。目の前の魔物に私の命は握られている。この体はいつだって傷をすぐに癒してしまうから、自らが望んで死ぬことが出来ないのだ。そのくせ飢えだけは常に付きまとっていた。けれど死にそうだと思うほどの飢えを耐える方が肉を口にするよりもましだと思っていた。

珍しくこんな山奥に、盗賊以外で寝泊りをする旅人がいたようだった。焚き火の残骸と捨てられた紙片。こういったものを見ると死にたくてたまらなくなってしまう。捨て置かれたのか、腐った果物の欠片(きっと切り落とされたんだろう)が土にまみれていた。迷うことなく口に放り込み、興味をそそられて紙片に手を伸ばす。

それはなにかの記事のようだった。掠れた文が綴っていたのはここ数年ですっかり世界を支配してしまった…あの魔物を使役している巨大な、魔王のことについての記事のようだ。読みすすめていくとローレシアの第一王子が王の命令で魔王討伐に旅立ったということが分かった。(…ローレシア)アレン、と心の中に一番強く残っている名前をつぶやく。小さく頭のなかに響いたのは幼い彼の笑顔だった。剣を振り回して、私をどんくさいと笑った同い年の少年。

彼はきっと、幼い頃の記憶も魔物に連れ去られ殺されたことになっている私のことも、とっくに忘れ去ってしまっているだろう。(魔王、かあ)魔王が倒されれば、あの魔物も力を失うのだろうか。あの魔物が力を失ったら、私はどうなってしまうんだろうか。死ぬか、元の姿に戻るのか……ああ、でも元の姿ってなんなんだろう。小さい時の、あの呪いをかけられた時の姿に戻るのかな。でもきっと、呪いはそのままでこの醜い姿のまま、世界が平和になったらきっと…すぐに見つかって殺されてしまう。あの魔物はとても強力な力を持っているけど、魔王より強い勇者が現れたらそりゃあ敵わないだろう。ああ、でも、あの魔物が勇者に殺される時がきたら……その時は私も勇者に魔物の一匹として殺されるんだ。じゃあつまり、私は大好きだったアレンに殺されるのかな。…悲しいな。


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やけに焦ったような盗賊達が私に気がつかないで走り去っていった。あいつが、あいつらが、噂の、強い…ぎゃあぎゃあと騒ぎながら彼らは、親方親方と連呼しながら走り去っていった。勇者が、近くまで来ているのかもしれない。


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魔物が私のエサ探しを禁ずるようになった。今まではエサを探すのに、目の届く範囲を定められて、その範囲なら自由に行動していいと示されていたのにどうしてだろう。寝床にしている洞窟の奥深くに閉じ込められて、腹が減ったらこれを食えと…差し出されたのはこのあいだ、目の前を走り去っていた盗賊と似たような格好をした、しかし別の男だった。殺して食えということなのか、まだぴくぴくと動いている。腹からは血が流れていて、今にも死んでしまいそうだった。


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死ぬことはないとはいえ、こんなに長い時間、何も口にしないのは久しぶりだった。目の前にもう、あの死に損ないはいない。盗賊の腰の袋にはいくつかの薬草が入っていたから、それを傷口に磨り潰して擦り込んで、盗賊の服の裾を破って腹に巻いて、まだ人間だった時にずっと付けていた、お母様とお揃いのピンを取り出して固定した。呪いが全身に回ってしまっていなかった時は付けることも出来たけれど、呪いが全身に回ってしまっている今じゃ宝の持ち腐れにもほどがある。

人間だった証はこのピンにしかないけれど、盗賊は明らかに良い行いをしていない人間だけど……結局は食べるなんて出来ないし死んでいくのを見守ることも出来なかった。あの魔物が食べ物を探すタイミングで外に出してやったら飛ぶように逃げていった。久しぶりに"人間らしいこと"をした満足感と、お礼はやっぱり魔物相手じゃあ言われはしないなあ、なんて虚しさが募った。結局は自己満足で、人間だった証を手放してしまっただけなのに。


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勇者が近くまで来ているらしい。

魔王から魔物へ、勇者を殺せとの命令が直接下ったらしい。詳しいことは分からないけれど、殺したら魔力ごと全て喰らうのだと、酷く楽しそうに嬉しそうに魔物は笑った。甲高い笑い声に震え上がった私を満足気に魔物は眺め回していた。笑い声は周囲を包み込んだ。


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斬撃音や爆発音、叫び声や怒声が響き続けてどれぐらいの時間が経っただろう。

――周囲を再び包んだ甲高い声は、笑い声ではなく死の絶叫だった。

瞬間、私は自分の体の異変に気がついた。腐った色の部分がどんどん全体を侵食していく。一番色の濃かった指先が溶けたように、白い泡になって宙に浮かんで消えていく。ああ、私……もしかして死んじゃったり、する?



こんな風になるってことは、勇者があの魔物を倒したんだ。(あの頃のアレンは、8にも満たない少年だったのに)私がこんな風にならないまま、あのお城でそのまま育っていたら――アレンが強くなっていく姿を見ることができたりしたのかな。今となってはもう分からないけど。ああ、私は人間だったことを誰にも知られないまま、魔物として死んでいく。







あの盗賊はあのピンを、どうしたんだろう。捨てたかな。売ったかな。







「―――………!」




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目を開けると、どこか懐かしい――…人間だったころ、最期に見上げた天井が確かにそこにあった。私は夢でも見ているのかもしれない。…でも、体中を包む柔らかい毛布とクッション地のベッドの感触は夢でもいいと思えるぐらいに素晴らしかった。まるで人間に戻っちゃったみたい。窓からは朝日が差し込んでいて、青空に太陽が輝いていた。反対側を向くと、少し皺の寄った顔の美しい貴婦人が目を閉じて船を漕いでいた。――その貴婦人の顔は、何度も求めて泣いた人の顔によく似ていた。

狂おしいほどの歓喜が胸を支配した。夢であっても構わない。お母様、と小さく名前を呼ぶとかくかくと揺れていた首の動きが止まり、ゆっくりと首が上がってくる。深い青のサファイアで、幼い私が宝石よりも綺麗だと思っていた母の目の色がそこにあった。大きく見開かれたその目に映った私は、記憶にない姿をしていた。


**


「……勇者様、こちらにいらしたんですね」
「ああ、これは……ええっと、ナマエ姫…」
「やっぱり、覚えていないんですか?」
「覚えてねえわけねーだろ!……っあー、その呼び方やめてくれ……むず痒い」
「ふふ、アレンは勇者になっても変わらない」


隣をいいですか、と茶化すように問うと一歩分、アレンが横に動く。そっとアレンの隣へ移動して、アレンと同じように夜空を見上げた。成長してしまったあとの体にはまだ慣れなくて、視界が魔物だった時と随分変わってしまっているのも戸惑う原因のひとつだ。

あの助けた盗賊は自らの仲間の元へ逃げる前に、力尽きて倒れてしまったらしい。それを丁度、あの魔物の討伐に向かっていたアレン達に保護され治癒魔法で癒して貰ったのだとか。そこでサマル様が、あの盗賊が腹に巻いていた布を固定していたピンがお母様のものと同じだということに気がついたらしい。お母様は国を訪ねてきたアレンに問われて三人の前で、私が死んだということを話したというのだ。その時に私と同じピンを、今でも私を忘れることが出来ず身に付けていると――…アレンがそれを思い出して、私が生きている可能性に賭けてくれたおかげで、私は今ここにいる。


「ああ、そういやあいつは?あの盗賊」
「うん。ちゃんと怪我の治療を受けてくれてるって。……治ったその先は教えてくれなかったけど」
「なんだ、寂しいのか」
「そうじゃないよ。報われたのが嬉しいだけ。身も心も全部腐る前に、いいことをして良かったなって心から嬉しくて。神様は私を見捨てなかった」
「……いや、腐ってはねえよ。今も十分、その、」


ぼそぼそと何かを呟くアレンを振り向いた。「アレンはすごく強くなったんだね!」勇者なんて、やっぱり凄い。軽装の上からでも分かる筋肉に、夜風に揺れる髪に、――幼い頃の面影を残した顔に、胸が押しつぶされそうだ。「まあ…そうだな」魔物の姿から人間の姿に戻った私を、運んでくれたのもアレンだという。そのたくましい腕にもう一度抱かれたいなんて!でも、だって、昔からアレンは素敵だった。


「ねえ、アレン」
「…なんだ?」
「助けてくれて、本当にありがとう。私にできることはない?」
「ナマエに出来ること?どうしたんだよ、改まって」
「私、アレンのためならなんでも出来る」


きっとこの先、これ以上の恩を受けることは無いんだわ。「だからお願い、お礼をさせて」深々と頭を下げるとアレンが慌てたように顔を上げろよ、と行き場のない腕を宙に彷徨わせた。「なんでも、って言われてもなあ…」私と夜空に目線を何度か往復させて、顎に手をあてうんうんと唸るアレンは本気で悩んでいるようだった。「…目当てのものは王様からもう貰ったしな…」「私個人のお礼よ、アレン」何もない、なんて無しだからね!

しばらくしてアレンが、気まずそうに私を見つめた。「アレン、決まった?」「あー、まあ、決まった…って言えば決まったけど」人差し指で頬を掻きながら、でもなあ、なんてまだ渋っている。「もう!言うだけでもいいから言ってよ」痺れを切らしてしまった私が急かすと、夜の暗闇でも分かるぐらいにアレンの顔が赤くなる。


「どうしたの、顔が赤いよアレン。…なに考えてるの?えっちなこと?」
「違う!」
「じゃあ、私はなにをすればいい?」
「っ、だから……ああああ!いや、やましいことは考えてねえ!」
「もう、早く言ってよ」
「…………今は言えねえ」


思わずなあにそれ、と言葉が落ちていた。「……私には出来ないこと?」この国の王女ではあるけれど、私個人が出来ることなんて限られている。やっぱり私はアレンの役に立てないのかもしれない、と気分が沈みかけたところで顎の下にごつごつとした指が触れた。


「…っ、」
「俺は勇者だから、今は言えない」
「……アレン」
「ハーゴンを倒して戻ってくる。だからここで待っててくれ。そんで、」


戻ってきたら言わせてくれ、と囁いた声は掠れていたけど、確かに私の耳に届いた。「…うん、約束する。約束するよアレン」ちゃんといい子で待ってるから、絶対にここに帰ってきてね。そうして私に約束を果たさせて。アレン、あなたが望むままに。あなたに生かされたから私はここにいる。私はなにを差し出したって、痛くも痒くもないのです。だからもう少しだけ、この温もりで私を包んで…



あなたが来るまでの永遠



(2014/05/18)

...Rosy note

実はこっそり、20万打の無記名様のリクエスト品で書いていた分です。ようやく書き上げました。お名前がなかったので短編の方に。一応分類は企画品ですがお持ち帰りはご遠慮くださいませ;2主とても楽しかったです。ありがとうございました!

夢主は世間から隔離されていたのでハーゴンを魔王として認識していました。