心臓を差し出す勇気なんてないのです




初めてそいつと出会ったのはレイドック城。そこで俺は彼女がレックの婚約者であることを伝えられた。それなのに、会う回数が増えるたびに、レックに会うたびに必然的に顔を合わせ、言葉を少なからず交わすことになる。そのうちにお互い名前で呼び合うようになり、悪いと思っているのに俺はナマエに惹かれていくのを自分では止められなかったのだ。

レックは定められた婚姻と言えどナマエをきちんと受け入れようとしていたし、俺も姉さんもそれを応援していた。特に姉さんはナマエを妹のように可愛がっていた。だから俺とも必然的に距離が近くなってしまって、その体から香る甘い香りにくらくらと酔いそうになっていて――レックとナマエが婚姻の儀を間近に控えたとある夜。

ふとした瞬間に二人きりになってしまって、それに気がついたお互いが口を閉ざした。普段はあんなに明るく俺に話しかけてくるナマエが俺と二人きりになった瞬間に黙り込んだのだ。静かな廊下に二人きり。誰の足音も聞こえてこなくて、思わずナマエを見つめるとナマエも俺を見つめていた。……音を忍ばせて近寄ると、ナマエの肩が少し跳ねるのが見えた。微かに頬が赤い気がして、――必死で抑えていた気持ちが爆ぜた。そう、禁忌を犯したのだ。


―――キスをした。


ナマエの肩を廊下の壁に押し付け、貪るようにキスを降らせた。痕をつけたかったけれども、この行為だけでもレックを裏切るに同意だというのに、と理性が歯止めを聞かせたのだろう。驚いたのはナマエがまったく抵抗しなかった事。…いや、むしろ受け入れていた。舌を絡ませ、唾液を交換して、熱っぽい吐息を吐き出したナマエがやけに色っぽくて、その瞳を潤ませていた姿が今も忘れられない。

『テリー、……もう一度だけ、お願い』か細い消えるようなその声も、忘れられてなどいないのだ。小さくああ、と返した気がする。本当はよく覚えていないけれど、もう一度今度は優しく口付けると、嬉しい、と確かにナマエは言ったのだ。背徳感に苛まれていた感情が全て吹き飛んだ瞬間だった。言葉にせずとも通じ合ったのだ。


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とうとうレックとナマエが婚約を結ぶ日がやってきた。当然俺と姉さんも招待されていて、更に開場にはハッサンやチャモロ、アモスのおっさんの姿も見えた。煌びやかな衣装に身を包んだレックは旅をしていた時とは違って、やはり王子なのだという風格を既に身につけていた。式はレイドック城の大広間で行われることになって、誰もが口々に楽しみねと囁いていた。国と国を繋ぐ結婚式。

レックが姿を消す。徐々にざわついていた広間が静まり、照明が消えていった。薄暗い闇に包まれたホールで、上階に続く階段だけが照らし出される。


―――純白のドレスに身を包んだナマエ。


レックにエスコートされて、階段を一段づつ、ゆっくりと下ってくるナマエにほう…と溜め息が漏れるのが聞こえた。招待された各国の重鎮たちが、美しさに息を呑んだということはすぐに理解出来た。それはそうだろう、――どくんどくんと心臓が高鳴る。

王女の名に相応しい美しさのナマエが伏せていた顔を上げると、微かにどよめきが広がった。…あまりの美しさに。それは王女としての気品やオーラだけでなく、女としての美しさも兼ね備えていた。人生で一番に幸せだ、という顔をしたナマエからは、定められた婚姻という考えを棄て、政略結婚を運命として、愛する人を手に入れたという喜びが見えていたのだ。遠目から見守っていた俺にも分かる。

……ただ、誰も気がつかないのだろう。その顔は笑っていても、目だけはレックを映していない。ナマエとしばらく目を合わせると、ゆっくりと彼女は微笑んだ。――合図だと受け取ったのだろう。聖歌隊が控えめな音量で声を発し、オーケストラがBGMを奏で始める。それと同時にレックがナマエのエスコートを再会した。再び目を伏せ、階段を降りていくナマエ。向かうは司祭のいる、婚約の儀式を執り行う核の場所。

名前が微笑んだ相手は俺だ。それは決別の合図を示していた。言葉にすることは無かったし、残った記憶は一度きりのあの夜のキスだけだったけれど、俺達は確かに愛し合っていたんだ。ナマエが王女でレックの婚約者でなければ、きっと俺達は幸せになれた。ナマエの隣に立っていたのはきっと俺だった。


「……最後まで、お前には敵わないよ」




心臓を差し出す勇気なんてないのです



(2013/09/24)