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※アレフ視点


初めてあいつを見たのは、川。
血を流しながら目を閉じて、まるで死んでいるかのように力の抜けた体が川を流れていた。それを放っておけなかったのは何故だろう。引き上げた水に濡れた冷たい体に触れたとき、何故だかそいつをそのまま放置して、死んだことにしてしまってはいけない気がした。


ナマエは磁石みたいだと思う。


引き寄せられてしまった今の感想はこれだ。こちらを強く惹きつけてどんどん周囲に人を増やしていくその姿を目の当たりにして俺は驚いた。ずっと一人で旅をしてきたからというのもあるだろうか。一人でない、というのはそれなりに心地の良いもので、あの妖精と笑い合うナマエは輪の中心にいた。

自分の中に迷いが全くないのかと言われると嘘になる。

見た事もない美しい宝剣を持っていたにも関わらず、ナマエは明らかに戦いに慣れていない。だというのに遺跡ではギガブレイクを放ったという。信じられない現象を本当だと言い張る証人となるのはソロ一人で、……俺はなんだかあいつが気に食わない。あいつにはその強さを見せる事が出来るのに、俺には見せてくれねーのかよ、と。

強いやつを探している、それだけ。

世界を救った後、ローラ姫からの手紙をずっと見ないようにしていた。世界の驚異であった竜王を倒した俺を待っていたのは賞賛と同じぐらいの畏怖で、しばらくすると世界は俺をどうしようかと要人を集めるようになっていた。理由としては竜王よりも強いと立証されてしまった俺が世界を征服しようとしたらどうする、と頭の固いジジイ達は悩み始めたというのが風の噂で俺の耳に入ってきた。俺がそんな事をするかと言い張ってくれたのは主君とローラ姫だけで、でも、俺は…俺より強いやつが現れれば、俺は、………また、受け入れて貰えるんじゃないか、なんて。




「………ああくそ、眠れねえ」


起き上がる。頭がずきりと痛むのは酒のせいだろう。今何時だ?窓の外を見上げるとまだ空は真っ暗で、月が美しく輝いていた。そういえばナマエは結局あのトランプ大会が宴会になった後も姿を見せなかったっけ。部屋に戻ってちゃんと寝たのか少しだけ気にかかったが、部屋に入るなんて流石に無理だろう。しかし、自分の頭はすっかり冴えてしまった。


同じなのに違う、この世界には未だ順応出来ていない。


俺の住んでいた世界と本質的には同じなのに、外付がまったく違う世界。いや…外付が同じなのに本質的には違う世界、なのか?似ているけれどまったく違う。まったく違うのに、どこか似ている。違和感が拭えないままもやもやとしたものがずっと心の中にとどまっていた。ああ、どうしたって割り切ってスッキリとすることなんて出来ない。


「……散歩でもするか」


気分転換に散歩でもしよう。夜だから多少は寒いかとマントを取り出し肩に羽織った。窓の外を見上げるとやっぱり月がとても綺麗で―――――………


















べちょり、







それは、小さな音だった。水が落ちたかのような……しかし、寒気を呼び起こすには十分な音。明らかにただの水の音ではない。暗くて見えにくいと思っていた部屋の彩度に慣れた俺の目が、窓ガラスに飛んできた液体の小さな小さな垂れる様を見逃すはずがなかった。――粘り気の強い、緑色の液体。それに混じる微かな赤色。迷うことなく閉じていた窓を思いっきり開いた。見上げるのではなく、見下ろす。触手のような影が空を舞って、どおん!と地面に叩きつけた。小さな影がそれを必死で避けている。


宿屋の四階から見下ろせる平原の中央。


明らかに本体と思える見た事のない、巨大な花のような魔物が周辺にその触手のような四肢を伸ばして口から粉末のようなものを放出していた。触手の数本はセントシュタインの街の入口、俺達の眠っている宿屋の目の前で小さな影を翻弄していた。刺の付いたその触手が小さな影を付け狙い、嘲笑うかのように体をすくい上げ、石畳の地面に叩きつけた。しかし尚、その小さな影は立ち上がるのだ。なんだ、俺は……夢でも見てるの、か?


きらり、と。身覚えのあるような輝きが見えた気がした。目を必死で凝らす。小さな影の手には握られていたのだ。――ロトの剣が。思わず自分の枕元を確認して自らのロトの剣を確かめた。ずっと共に有ったのだから、遠目からでも本物か偽物かなんて簡単に判別出来る。本物は他と"違う"のだ。

じゃあ、あの魔物と戦っているあいつは誰だ?





「…………ナマエ………?」


ぺちゃっ、と。

再び音が聞こえたと思ったら、窓から顔を出していた俺の頬に一滴の赤い雫が付着していた。同時に、月の明るい光が遮られる。見上げると、月を背後にする触手の刺の一本に血が付着していた。多分、それはナマエのもの。見下ろすと、地に倒れ伏しているナマエが触手の一本に体を持ち上げられていた。叩きつけられる、のか?


「ッ、」


――――ようやく事態を認識した俺は枕元の剣を引き寄せて抜いた。そのまま窓枠に足をかける。ナマエの体がふわりと宙に浮き上がっていた。駄目だ、それは。「あいつを、」『彼女を、』自分の声と重なって、知らない誰かの声が響く。


『彼女を殺させてしまってはいけない!』


知らない声が脳に直接響いた。誰の声だとか、そんな事を考える暇は俺には無い。窓枠を蹴って飛び出すと、目の前でうねうねと蠢く触手の一本に剣を突き立てた。


眠れない夜に月が照らす脅威





(2013/08/03)