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ただひたすら、無心で剣を振るった。

剣技なんて分からないし、型だって素人がそんなにすぐに習得出来るはずがない。でも、やらなければ元の世界に帰れないのだ。元いた世界とは違って、この世界ではいつ命を落とすかも分からない。蛮勇だけで生きていける世界はどこにもない。守ってくれる人ではなく、守る立場にならなければならないのだから。

習得は出来なくても、剣を持つ事に躊躇いを持たなくなることが最優先事項だ。振るう事に躊躇いを持たなくなるのがその次。魔物であれば躊躇無く切り捨てていく覚悟を固めなければならないし、……でも、人を殺める事はしたくないと思う。いくら悪人でも"人間"の命を奪うことは多分、どうしたって出来ないだろう。甘ったれているのはわかるけれど、人の命を奪う事をしてしまったら……リミッターが外れて何を奪うにも躊躇いが無くなってしまう気がする。

『大事な人を殺されたら?』

仇を討ちたいと思うのだろうか。でも、復讐は成し遂げた時に虚無感しか残らないんだよなあと綺麗事をぽつりと心中で呟いて、剣を振り、薙ぎ払う。夜空には見た事もないほどの無数の星が煌めいていて、いくら明るい城下町でも犬の鳴き声がほんの時々聞こえてくるだけで周囲はもう薄暗い。街灯の明かりを頼りに汗と二酸化炭素を吐き出しながら、私はひたすらに剣を振った。何度目かなんてもう数え切れていない。この重さにもようやく慣れてきた頃だと思う。

自分がどうしてこうも執着しているのかも、どうでも良いと思い始めていた。選ばれた事に対する高揚や、自分が特別だと言われて舞い上がっているのかもしれない。本当なら守るなんて言わなくて引き返せば良かったのに―――プログラムではない、"生きている"姿を見たら揺らいでしまっていた。言葉を交わしたら、自分より小さなその存在を守りたいと思ってしまった。どうしてそう思ってしまったのか、自分の思考回路がどうなっているのか自分でも分からない。何も考えていなかったからかな。

もう元の世界に帰る事を考えるのは一旦保留にしようと思う。今は早く強くなって強くなって、勇者と肩を並べられるぐらいになりたい。成し遂げるべきことを全て成し遂げられたら、元の世界の事を考えよう。……じゃないと、寂しくなってしまう。天涯孤独の身ではなかったし、大事な人がいたのだから。帰れると信じているから、強くなりたいと思う。生きたいと思うのだ。


「………今何時だろ」


最初こそ無心だったのに、気がつけば考え事をしていながら剣を持っていた自分。だめだ、こんなんじゃあ集中出来ない。…でも、考え事をするなというのも無理な注文で。周囲を見渡すと、もう何時間も経ってしまっているみたいだった。リッカたちももう眠ってしまったのだろうか、宿屋には小さな街灯がぽつりと灯っているだけだ。ひんやりとした空気にぶるりと身が震える。


「今日はこの辺で終わろうかな?や、でもまだ頑張れる…なあ」


声を出すのを躊躇って、しかし喋らずにはいられなくて小声が漏れた。暗闇に不安を煽られたというのもある。深夜が怖いという年齢ではないけど、この世界の夜は……少し、怖い。野宿なんて出来るのだろうかと自分の今後を心配する余裕はただの見栄で、手はあまり音を立てないように武器を拾い集めて足はなるべく音を立てないようにして宿屋へと向かっていた。あれ、そういえばリッカ達眠っちゃってるんなら私、入れない?―――なんだろう、嫌な予感がする。一旦武器を地面に置くとがちゃん!と音が響いた。気にしていられない。宿屋の入口の扉を開こうとノブを回すと、案の定。がちゃがちゃと音が響くだけでぴくりとも動かない。や、やっちまった…!

ど、どどどどうしよう!?でもこんな夜中にリッカを呼ぶのは完全に迷惑だろうし、きっと疲れてるだろうし――自分の泊まっている部屋のあるあたりを見上げると、すっかり真っ暗になった部屋。あああああこれ詰んだ!詰んでる!野宿のフラグですね分かります!思わず頭を抱えたその瞬間、





――――ぞわり、とした寒気が全身を襲った





「…………」


反射的に声を殺し、背中を扉に押し付けた。宿屋の扉の事を考えた時より、もっと大きな巨大な、比べ物にならない嫌な予感。――ブルドーガに感じたものと似たような、どす黒い何かを感じて身動きが取れなくなる。唯一腰に携えていた剣を握る手の力が強くなって、それから自由が効かなくなった。しかし怖いもの見たさというのだろうか、これは……暗闇の先に目を凝らすと、街の入口に影が見えた。次第に大きくなっていって、その影は明らかに異形の形を成していた。


街に魔物が入ってきた?


遠目からでも分かる程に大きなその体は、明らかにセントシュタインの周辺に出る魔物ではない。体全体が急激に冷えていくような感覚に陥った。しかし、街の人々が寝静まった深夜―――この事態に気がついているのは私だけ。脳内で警報器の音が鳴り響くけれども、それでも引き下がる事が許されない。

唇を噛んだ。

しゅるしゅる、と音を立てて入ってきた魔物は足音を煩く響かせることはない。代わりに奇妙な音を静かに唸らせながら静かに街に潜入していく。宿屋の影で隠れていたその体が、近づくにつれて月に照らされ、その姿を照らし出した。


「………ローズ、バトラー…」


ああ、明らかにレベルが違うなあと当たり前の事を考えながら、無理矢理に腕を動かして剣を抜いた。床に置いたものではない、腰に携えていたのはそれなりの重さを持ったロトの剣。比較的軽い天空の剣とは違う。重い剣を腰に付けたまま剣を振ればそれなりに練習になるのではないかと思ったけれど、今この中で一番攻撃力が高いのはこれだ。

シャラ、と刃物が鞘と触れ合う独特の音が響く。寝静まった静かな街にその音はやけに大きく響いた。ぴたり、とローズバトラーの動きが止まる。ああ、気がつかれないようにと思っていたのに――顔をこちらに向けたその魔物には目が無くて、知っていたけれどもその大きさと形相に震えた。怖い、怖い!怖い、今すぐに逃げ出したい!でも、


「…………逃げ、るか……!」


ザオリクってさ、死んでどれぐらいまで有効なんだろう。生きるべき寿命が残っていれば生き返れるのかな。ああ、でも私がすぐに死んでしまったらザオリクで生き返る事が出来るのか未だ分からない、街の人や…王様や、フィオーネ姫まで犠牲になるのかもしれない。ああ、死ねない。

大丈夫、実力は無くても使いこなせていなくても、性能だけはレベルマックスだ。いざとなれば体を盾にしよう。練習だけじゃ駄目だ、実践で実力を培わなきゃ。そうだ、プラスに考えよう。プラスに、プラスに―――……


「   」


必死で己を奮い立たせる私を相手は待ってなんてくれない。伸ばされた緑色の腕は、目の前。


真夜中の来訪者





(2013/07/23)