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※アルス視点


目の前に立つ女の人は、ぽかんと口を開けることも、質問を復唱することもなく、ただじっと僕の目を見つめた。その目をしっかりと見つめ直す。やがて、少しだけ躊躇い気味にその口がゆっくりと動いた。少しだけ体制を整える。


「……聞こえるように、言った方がいい?」
「へ?」
「あ、いや……アルスにだけ、言った方がいいのかなと思って」


目を見開いた。まさかそんな事を問われるとは思いもよらなかったからだ。「あ、じゃあ……僕にだけ」驚きが声にもはっきり現れていて、自分でも少し恥ずかしく感じる。しかし気にするべきはそこではないのだ。「…知っているの?」「うん、まあね」少しだけ苦笑いを浮かべて首元をぽりぽりとかくナマエさんだ。身長差はそれなりにあるから、彼女はしゃがみ込んで僕と目線を合わせた。そのまま、耳元に口が寄せられる。

すこしどきりと心臓が高鳴ったのは、多分、こんな経験が無いせいだ。周囲にいる女の子と言えば一番近くでマリベルだけれど、マリベルはこう……なんというか、こんな行動は絶対にしないし。アイラはキーファとの繋がりがあるから、背中を預けるのに躊躇いはなくとも、ドキドキといった感情は生まれない。耳元に寄せられた口から漏れる吐息が、やけにくすぐったくて心臓をばくばくと鳴り響かせた。鳴り響く原因には緊張感もしっかりと含まれている。


**


『相手の反応で、"勇者"を見極めなさい』


昨晩、フィッシュベルの自宅で眠っていた僕の夢の中に現れたのは、やけに切羽詰ったような水の精霊様だった。その影は立体感も何もない薄い姿で、しかしどうしたのと問いかける暇は無かった。その姿がどんどん消えていくから、夢の中だというのに言葉を失ってしまったかのように声が出なくなったのだ。


『今すぐ起きて、仲間達を集めなさい』
『神さまが力を封じられてしまったのです』
『異世界でアルス、あなたの紋章の事を知っている者がいるでしょう』
『その者はあなたと同じ勇者。あなたを導いてくれる』
『その勇者と共に行き、今一度、世界を―――』


だんだん遠くなっていく声。優しい声が掻き消えるように遠くなっていったことに、不安感を煽られずにはいられなかった。声が完全に途切れると共に、僕は跳ね起きていた。体中に汗をかいていて、嫌な予感に体中が震えた。窓の外はまだ暗かったけれど……


「…行かなきゃ」


もう二度と使う事は無いだろうと、宝箱の中に仕舞っていた剣と盾、それに鎧と兜を取り出した。久しぶりに感じる重みをずしりと実感し、剣と盾だけを装備して鎧と兜は袋に放り込む。宝箱の隅に追いやっていた冒険の残滓をかき集め、これも袋に放り込む。


「父さん、母さん……ごめん」


今すぐに行かなければいけない気がした。音を立てないように梯子を下り、眠っている両親の顔を見ると心が傷んだ。しかし、切羽詰った状況なのは変わらない。マリベルはぐっすり眠っているだろうが今すぐに起こさなければ。『神さまが力を封じられてしまった』というフレーズが頭から離れないままずっと反響しているのだ。それに、ただの夢にあんな切羽詰った水の精霊様が出てくるはずがない。


「"ルーラ"!」


ルーラは、イメージした場所に転移出来る魔法だ。マリベルの部屋をしっかりと思い浮かべて呪文を唱えると、体が光に包まれた。直後、目を開けるとマリベルの部屋。目の前にはベッドで寝息を立てる幼馴染の姿があった。「……う、うう……」怒られるどころの話ではないだろう。殴られて呪文を唱えられるかもしれない。しかし、事は一刻を争う。


「マリベル、起きて!」
「………んあ……ぁ?」
「起きて!大変なんだ、今すぐみんなを集めないと!」
「…………ぁ…るす?」
「そう、アルスだよ!急がなきゃいけないんだ、ほらこれ持って!」


預かっていたグリンガムのムチを彼女に差し出すと、薄目を開けた幼馴染は酷く不愉快そうに眉を潜めた。あれ、思っていた反応と違う―――と、思いきや直後カッ!と目を見開いたマリベルは驚く程の速さでベッドから飛び起き僕の襟首を引っ掴んで掴み上げた。「……アンタ、なんでこんなとこにいるの」「ぐ、ぐる…し…っ!?」「今何時だか分かってんの?」睡眠を邪魔された幼馴染の機嫌は普段の数倍悪かった。僕を掴んでいない片手からは微かに魔法力を感じられる。あ、水の精霊様ごめんなさい…僕ちょっと無理かもしれないです、なんて祈りを捧げようと目を閉じた瞬間、いきなり苦しさから解放される。


「アルス、……何でアンタ、"それ"持ってんの」
「"それ"…?」
「剣よ」


オチェアーノの剣に気がついたマリベルの表情が、訝しげなものに変わる。「もう二度と触れないんじゃなかったの」冒険を終えた時に宣言した言葉をマリベルは覚えていたのだ。そう、僕は漁師として生きていくと決めた。だからこれは封印した――はず、だった。それを持ち出してきたという事実に何かを悟ってくれたのだろう。『話しなさい』と言わんばかりの目線(睨まれているとも言う)を受け、やっと口を開くことを許されたことを悟る僕。迷わず口を開こうとし、――興奮したまま喋ると支離滅裂な事を口走り、幼馴染が再びベッドに戻ってしまうという可能性を考慮し、一度深呼吸をした。「大変なんだ!」


**


夢で聞いたことの全てをマリベルに伝え終わった後、普段は僕の事を馬鹿にするばかりの幼馴染の表情が真剣なものに変わっていた。こういう時に一番察しが良いのがマリベルだ。何も言わずに僕が差し出したムチを受け取り、彼女も仕舞いこんでいた冒険の残滓をかき集め始めた。その後、二手に分かれて僕はメルビンを、マリベルはガボとアイラを迎えに行くためにそれぞれルーラで夜の世界を駆けた。数時間後、神殿に集まった僕らは迷うことなく虹色の入江にワープし、そこで―――……



――巨大な地震に、襲われたのだ。



全てがひっくり返りそうなほどの大地震。覚えているのはみんなの驚愕に染まった表情だけ。離れないようにと、全員で背中を合わせていたのだ。

気がついた時には、感じていた温度が無かった。

不安に駆られて周囲を見渡した時、そこは真っ白な世界だった。死んでしまったとは思えないほど自分の体は暖かくて、心臓だって波打っている。仲間の名前を呼んだ。何度も、何度も。

しばらくして意識がぷつりと途絶えたかと思ったら、次に目を見開いた時はまったく見知らぬ世界。なんとなく、水の精霊様に言われた事があったから、『ああ、ここは異世界なのか』とぼんやりながらも受け入れることが出来た。運が悪かったといえば、目覚めた場所が井戸の底だったことぐらいだろう。助けてくれたミネアさんとレックスと共に行動するあいだ、ずっと"勇者"を探していた。

―――そして、あなたが直感的に"この人だ"と感じさせてくれたんです


「ナマエさん、言ってください」
「……水の精霊の紋章が、刻まれている」


一泊置いて、耳元で告げられた答えに背筋がぞくりと震えた。何故知っているのかは後々聞こうと思うが、今はこんなに早く出会えた事を素直に喜びたい。


「―――あなたが、僕の探していた勇者で間違いないみたいです」



The courageous person of paradise

(エデンの勇者の探し人)

(2013/07/04)