ここに逃げ場は存在しない


吉良くん、と呼ぼうとすると露骨に嫌な顔をされてヒロトでいいよと言われてしまった。「よろしくね、名前」「ええと…こちらこそ、ヒロト」差し出された腕の色は女の私よりも白く、まるで壊れ物みたいで怖くなる。きちんと食べているのだろうか。上着のせいで隠れているけど、随分細いように思えてしまう。


「で、不動君が向かっていたところだけど」


兄さんは顔が広いんだなあ、イナズマジャパン以外にも友達が多いなんて…少し感動を覚えているとヒロトが、廊下の奥を指差した。「向こうにはね、確か……ああうん、倉庫があるはずだ」君の友達はそこに閉じ込められでもしているんじゃないかな、と微笑んでこちらを向いたヒロトに思わず首を振っていた。ワンダバを?兄さんが閉じ込める?まさか。


「閉じ込めるなんて、そんなことしないよ」
「おや、どうしてそう言い切るんだい」
「ちょっと意地悪いところもあるけど、兄さんは面倒見がいいし本当は優しいから」


半分は自分に言い聞かせるため。

腰に腕を当てて言い切ると、みるみるヒロトの顔が驚きに染まっていくのが見えた。「…………」「え、なに、なにそのこいつ何言ってんのみたいな顔」「え、あ、いや………………世界には色々な考え方をする人がいるんだなって」長い沈黙の末に絞り出すようにしてヒロトの口から出てきた言葉を聞くと同時に、私を見る彼の目線が少し変わった気がする。こう、可哀想なものを見る目とでも言うのだろうか。


「なんだか君が哀れに思えてきたよ…」
「いやいやいやあの、」
「恋は盲目って言うのかな。……不動君が……はは」


掠れた笑い声を最期に、非常に気まずい沈黙が私達のあいだに訪れた。「サッカーの天才かと思ったら…なかなか、君は本物の宇宙人みたいだ」「う、宇宙人…?」「宇宙人。ふふ、別に君がエイリア学園だって言ってるわけじゃないけどね」…エイリア学園?そんな学校が十年前には存在したんだろうか。

しかし先程の自分の言葉に、私は自信を持てないでいた。「……」「どうしたの、名前」クマの友達を探しに行くんじゃないの、と問いかけてきたヒロトの言葉に頷きつつも嫌な感覚は拭えない。「……兄さん、かあ」頭に浮かぶのはさっきまで一緒だったモヒカンの、頭に刺青のある不動明王ではない。イタリアに丁度遠征に来ていて、偶然私が師事した人の知り合いで、素質を見出されて鍛えてくれて…なんだかんだ面倒をよく見てくれるのは"大人"の不動明王なのだ。

でもヒロトが聞いてきたのは"子供"の不動明王のことで……やはり中学時代からモヒカンだったことには理由があるのかもしれない。単なるおしゃれではなくて、例えば…不良だったとか。不良もしくは、(こんな怪しい施設にいるんだから)何か理由があるのかもしれない。円堂監督や鬼道コーチと……この先の未来、イナズマジャパンで出会って、それから兄さんは変わっていったということも考えられるのだ。


**


「そういえば君は不動君の妹なんだよね?でも随分似てない兄妹だ」
「あ、違う違う。私と兄…不動さんは、師匠と弟子というか。親しみを込めてというか」
「師匠と弟子?へえ、彼に弟子ねえ……君みたいな子が?彼より強いんじゃないかな、君」
「それは有り得ないよ。まだまだ私が兄さんを越えるなんて」
「随分謙虚なんだね、名前は」
「謙虚だなんて初めて言われた……」


ヒロトの案内に従いながら、長い廊下を曲がってどんどん、潜水艦の奥へ奥へ。「初めて?そうかな、俺の目から見れば君の実力は本当に…素晴らしいよ」」すうっと細くなったヒロトの目に気がつかないまま、倉間や神童には絶対に言われない単語に心をくすぐられた私は思わずニヤけていた。「ふふふ、謙虚かあ…」ああ、素晴らしい響き!一歩引いてる感じがしてたまらない。大和撫子のような女の子は理想だ。そう!大和撫子と言えば例えば!剣城と一緒に病院に行った時に剣城のお兄さんの病室で会った、あの紫色の綺麗な髪のすごく大人な美人のナースさんとか!脳裏に残る、優美な微笑みは入院したいと思うぐらいだった!――と、今は関係がないんだった。ふるふると首を振って、惜しい気持ちを抑えながらナースさんのことを考えるのをやめる。


「でも自分の実力は自分が一番分かってる。プロには敵わないよ」
「プロ?…ええと、それは誰が?」
「誰って勿論―――あ!」


そんなの兄さんのことに決まってる、と言おうとした私の視界が捉えたのは特徴的なモヒカンだった。そして恐らく全国を探しても、刺青入りのモヒカンを持つ頭の中学生なんてこの時代の不動の兄さん以外に……いないわけでもないかもしれない。ヒロトが言っていたとおり世界は広いのだ。私達の時代でも(身近なところでは天馬や剣城が)十分に珍しい髪型をしている。

ともかくそれは不動の兄さんで、私は思わず駆け出していた。酷く鬱陶しそうな顔で振り返った彼の傍にワンダバはいない。「兄さん!」「いや、だから俺はお前の兄じゃねえよ…」部屋で待ってろっつったのに、とぶつぶつぼやく兄さんの周囲を見渡した。青色の影はやはり見当たらない。


「いやむしろ丁度良いか、っておい!…どうしてアイツがお前と」
「兄さん!ねえ、ワンダバは?どこに連れてったの?」
「え?あ、あー…あのクマか?」
「そう!クマのアンドロイド!ワンダバ!」


アンドロイド?と首をかしげた兄さんに詰め寄って顔を近づけた。「教えてあげたらどうだい、不動君」背後から私を援護してくれるヒロトの声。内心非常に心強い。数秒の沈黙のあと、兄さんは舌打ちをしてから顔近づけんな、と私の顔を押しのけた。「っ、わ」その力はやけに強くて、背後に押された私は倒れはしないが思わずふらついてしまう。


―――その瞬間、視界に映ったもの。


「……ねえ、兄さん」


きらり、と。

視界に映った紫色の光に、ざわりと心が波打った。本能が警報を鳴らしている。「なんだよ、いきなり」クマの行き先が聞きたかったんじゃねえの、と――兄さんが発した声がやけに遠い。代わりに耳元に届くのは、嫌な予感に震える私の心臓の音だ。

兄さんは、何か――ペンダントのようなものの、紐の部分を握っていた。ゆらゆらと揺れるペンダントトップには、妖しいぐらいに輝く紫色のようなピンク色のような…曖昧な色の菱形が揺れていた。どくんどくん、と心臓が波打つ。あれは嫌なものだ。近づきたくない!


「あー、まあ教えてやらねえでもないけど」
「……なにを?」
「何をって、あのクマだよ。あいつな、捨てた」
「……え」
「捨・て・た。必要ねえだろ、あんなの」
「捨てた…?」


兄さんが、まさか、そんな。

嫌な予感と絶望感と、恐ろしい何かに背筋が凍った。同時に足が鉛にでもなったかのように動かなくなる。一文字づつ、丁寧に区切られたその言葉は私の予想以上に、不安を煽るに十分過ぎるほどの効力を持っていたのだった。どうしよう、ワンダバ、ワンダバが、……兄さんになにをされた?でも捨てたといっても、流石にすぐさま海の中に放り込まれたというわけじゃないはずで、


「そんなにあのクマが大事かよ」
「だ、大事なんてものじゃない!ワンダバは私の――」
「お前の働き次第で、あのクマの住処をゴミ箱からお前の部屋に移してやってもいい」
「………え」
「海に捨てたなんて誰が言った?ああ、捨てて欲しいんなら今からでも、」
「っ、や、やだ!なんでもするから!それだけは!」


必死に兄さんの腕にしがみつくと、彼は楽しそうに笑った。「なんでも、だな」新しいおもちゃでも見つけたかのように、嬉しそうに笑う彼の笑顔は大人の時とは違って不吉なものを感じさせる。――酷く嫌な予感が、再び背筋を駆け巡ってぞわぞわと体中に鳥肌を立たせた。じゃあこれだ、と兄さんが腕を上げた。紫色の石が目の前で揺れる。




「名前、……お前に限界以上の力をやるよ」



ここに逃げ場は存在しない


(2014/05/04)