聞き覚えのない苗字


ここがお前の部屋だ、と割り当てられたのは簡素な部屋だった。また後でな、と言い残して兄さんは去っていった。私はといえば分かれてしまったワンダバのことが気になって、部屋のなかを落ち着きなくぐるぐると回っている。なんだか嫌な予感がしていた。酷くワンダバが心配で、同時に先程まで上がりきっていた気分が一瞬にして沈んでしまったのも感じていた。不安の種は……あまり考えたくないのだが、明王の兄さんにある。

なんだか、人違いをしているんじゃないかという考えがじわじわと頭の隅から脳の全体へ広がろうとしているみたいだった。なんだか、違う。漠然とした感覚でしかないけれど、こういった嫌な予感は案外当たったりするものだ。「…ワンダバ、どこなのかな」出たら兄さんに怒られるだろうか。でも、未来の。私が知っている兄さんはしょうがねえなって許してくれるそんな人だ。――じゃあ過去は?私は兄さんのことをプロのサッカー選手だとか、元イナズマジャパンだとか、そういったことしか分かっていない。それ以前の、円堂監督たちと出会う前のことは一切話そうとしてくれなかったから。だから知りたくなって興味本位で飛び込んだ過去の世界がここで――…「あああもう!」ぐしゃぐしゃと髪を掻き回すと、少しだけ落ち着いたみたいだった。とにかくワンダバと合流しよう。もう十分に楽しんだ。久しぶりにサッカーもやった。そろそろ帰らなくちゃ。みんな、神童や天馬君、葵ちゃんや剣城だって心配してくれているだろう。フェイ君はワンダバがいないから未来に戻れなくて困っているかもしれない。――未来の、明王の兄さんだって。


「……会いたい、かも」


漠然とした気持ちで胸の中に思い浮かべたその人は、いつものように目を細めて口元を緩めて私を見ている。シャツの胸元を無意識のうちに握り締めて、ドアの方へと歩を進めた。ワンダバは一体どこに連れていかれたんだろう?嫌な予感がじわじわとせり上がってきていて、ドアを開いた瞬間に私は走り出していた。


**


道も分からない要塞のような潜水艦の中を、全力で駆け抜ける。

ワンダバの名前を呼びながら走っていたせいか、廊下ですれ違った黒服の人が私を見て顔をしかめていた。曲がり角を曲がる途中、やけに顔色の悪い細い男の人とぶつかりそうになったけれど、その人の目がなんだかとても嫌だったからすぐに目を逸らしてまた駆け出した。体力にはまだ余裕がある。

ワンダバはどこに連れて行かれたんだろう。元はといえば私のせいでここまで来てしまっているのに…こういった時はただただ悪い予感が頭をかすめるもので、柄にもなく無償に叫びだしたい衝動に駆られた。ああ、本当になんて私らしくないんだろう。でも責任感を感じているのは私に責任があるからで…ワンダバになにかあったら、私は?元の時代に帰れる帰れないの前に、フェイ君に顔向けができなくなってしまう。


「……っ、どう、しよう」


ぱたん、ぱたん、ぱたん。響いた靴の音はやけに大きくて、気がついた時には足は動かなくなっていた。ワンダバ、あの気のいいアンドロイドのクマに何かあったらと思うと背筋がぞくりとする。浮かれていないで、離れなければ良かったのに。守るなんて言ったのは誰だ、私か。お気楽な気分はとうにどこかに落としてしまったみたいだ。

十年前の世界。一人になってしまえば不安しか残らない。へなへなと抜け切った足に耐えられず、思わず壁に背中をつけてそのまま床に座り込んだ。どうしよう、ともう一度小さく繰り返しても声が上手く出ない。誰に聞くわけでもなく、聞くとすれば自分なのだけど…当然のように問いかけてもなにも返ってこない。返ってこないうえに、さらに自らの不安を煽るだけだ。なのに自分にしか問いかけることはできなくて、それで、








「……もしかして、泣きそうなのかな」


――はっと顔を上げた。「……え?」そこでようやく、私は不安で泣きそうになっていたことに気がついたのだった。……ああ、弱いところなんて誰にも見せたくない!たとえ相手が誰であろうと、私は絶対に涙を見せたりしない。ごしごしと腕で目元を擦って、息を大きく吸い込んだ。ゆっくりと顔を上げると、色の白い綺麗な男の子がそこにいる。


「もう大丈夫なの?」
「…泣きそうになんてなってないから、大丈夫」
「そっか。それならいいんだけど」


手を貸そうか、と差し出された手を取るのに一瞬躊躇った。「…ええっと」「ああ、別に気にしないで。俺は怪しい人間じゃない」それなら、と手を差し出すと彼は私を引っ張って立たせた。ふわりと、赤い色の髪が揺らめく。――私は彼の未来の姿を、見たことがあるような無いような…?


「君がサッカーをしてる姿を見たんだ、俺」
「サッカー…?あ、もしかしてさっきの」
「ああ。随分楽しそうにサッカーをするんだなって。……まるで彼みたいだ」
「"彼"?」
「いや、こっちの話だよ。それより君と一緒にいたあのクマのぬいぐるみは?」
「ぬいぐるみじゃなくて、ワンダバは…その、はぐれて」
「そっか。じゃあ、さっきすれ違った不動君が、そのクマを連れていたのは君の意思じゃなかったってことかい?」
「ワンダバを見たの!?」


迫るようにぐいっと顔を近づけると、少し焦ったような顔でああ、と彼は頷いた。「私、この潜水艦の中の…道が分からなくて!」「そうなのかい?」「数時間前に来たばかりだから!だからその、不動の兄さんのとこまで案内して欲しくて!」お願いします!と頭を下げると困ったように笑った彼はいいよと頷いた。「そういえば名前を聞いていなかったね。君の名前は?」「苗字名前!」「そっか。良い名前だね。俺は吉良ヒロトだよ」ううん、やっぱり聞き覚えのない苗字だ。サッカーに関係していない未来の有名な人なのかもしれない。



聞き覚えのない苗字


(2014/04/27)

好き勝手やってるせいで社長まで出てきた…玲名様に辿り着ける気はしない
ゲームで不動がヒロトを見てあいつには情けないところを見せられない以下略って言ってたので面識のある設定のまま書いています。

*補足
吉良を名乗らせたのはヒロトが、基山の姓を一番に明かすのは円堂がいいなと思っているからです。円堂にはヒロトとだけ、円堂以外にはさらりと吉良の偽名を使える二期ヒロト…という勝手なイメージから。逆に言えばまいうぇい主は興味を持たれているだけでそれ以上でも以下でもなく、故に本名を明かすに値しないと現状で思われているということです。ついでに言えば初対面で頭が弱そうと判断されていると思われます。現に主は財閥の名前を明かしても気がついていないので流石はヒロトと思ってくださいませ…!