笑顔の裏


苗字先輩が、今夜アメリカに行ってしまう。


天馬たちによると、どうやら三人は神童先輩のところに部活の事で確認を取るために二年の教室に向かったらしい。そして三人は先輩がアメリカに行くということで騒然とした教室に出くわしたという。
これを聞いた後の俺は授業になんてまったく集中出来ず、ノートも今日は真っ白だ。何で、何で先輩は当日になってそんな事を。あの人が汗水垂らしている現場を俺は昨日見たばかりだというのに、どうして?

当然の如く部活にも集中出来ない。というか普段通りな神童先輩達が信じられない。……もやもやと考えごとばかりしていると、やはりシュートのキレは鈍るもの。厳しい顔をした神童先輩にグラウンドから追い出された。――少し、霧野先輩のニヤけ顔が気にかかったが今はそれどころじゃない。

ベンチに座り込む。はあ、と大きな溜め息が漏れた。……直接、聞くべきだろうか。本当にアメリカに行って……戻って来るのだろうか?いや、そんな気がしない。なんとなくだが、あの人は掴みそこねたら二度と掴むチャンスは訪れない人なんじゃないかと思う。でもだからといってもなんと声を掛けて呼び止めれば良いのか分からない。ってあれ?俺、もしかして先輩に日本に残って欲しいとか思ってる?ただの先輩後輩関係でそんな風に思うのか?もしかして本当に―――いや、違う、違うんだって!


「何が違うの?」
「っう先輩!?」
「おーっと今日は逃がさないぞ!……何かあった?」


どうやら声に出ていたらしい自分の理性の必死の抵抗を見事に聞かれていたらしい。大きな洗濯カゴを抱えた先輩は反射的に逃げてしまいそうになった俺の腕を掴んだ。水を触っていたのだろうか、冷たい温度が火照った体に染み渡っていく。――はずなのに、脳内は沸騰しそうになるのだ。今日は遠目から見ても調子相当悪そうだけど、と問いかけてきた先輩の声をちゃんと認識出来ない。ああ、こんな調子じゃ謝るなんて出来ないだろ俺!そう、どう思っていないんだったらこんな風にはならないはずだ!第一に、先輩は、……変態で。


「剣城」
「………なん、ですか?」
「私のこと嫌いだった?」


へ、と間の抜けた声は多分目の前のこんなに至近距離の彼女にさえ届く事はない。唐突な質問に思わず正面を向いて先輩の目を覗き込んでしまう。その目は普段のへらりとした笑顔と共にある細められた目ではなくて、―――しっかりと見開かれた目。射抜かれるような感覚と共に言葉は喉元から消え去った。嫌い?そんなはずはない。でも、言葉は出てこない。


「……最近私の事避けてるみたいだし……何か怒らせたんなら謝るし、生理的に無理だって言われるんならそう言って。もう近づかない」
「っ、違」
「最近剣城の調子が悪いのって私のせいなんじゃないの?」
「そ、んなわけ!」
「じゃあ、何で避けるの」
「………それは」


ゆっくりと視線を地面に落とした。どう答えれば良いのだろう?あなたが好きかそうでないか分からない自分にモヤモヤして、本能が避けてしまっているだなんて言えない。前のように普通に喋ることが出来なくなっただなんて言えない。苗字先輩を前にすると―――自分が自分じゃなくなるような気がして怖いから、だなんて誰が言えるだろう?

沈黙。耳に届くのはグラウンドで練習をするみんなの声だけ。……先輩の手が、ふと離れた。気がついた時にはもう触れられていなかった。安心するはずのところなのに何故だかとても寂しい気分に襲われる。「剣城」――先輩の声は、普段と少し違う。その声に何かとても嫌なものを感じて思わず顔を上げた。


「迷惑かけて、ごめんね」


――――どうして、笑うんですか?



その笑顔の裏

(俺が泣いてしまいそうなぐらい)
(悲しい感情が見え隠れしていた)

(2013/05/13)