優しい笑顔


「それでこの間の狩屋ったらまた霧野に……あ、電話ですよヒロトさん」
「ああ、失敬。……おや円堂君だ。ちょっと出てくるね」


**


大きな通りにある、有名な高級和食店に入るとウエイトレスが明らかに眉を潜めた。この時間はまだ客が少ないらしく、店内はまだ人がまばらだ。無視して店の奥に進んでいくと、ひとつの座敷部屋の前に大きい革靴と対して大きくもないローファーが鎮座しているのが見えた。迷いなくその部屋の前に立ち、のれんをくぐって引き戸を開ける。


「………おい、」
「やあ不動君。思ったより早かったね」


いつものスーツ姿のヒロトが、にこにこと手を振っているのに思わす舌打ちをせずにはいられない。いやあまさか円堂君の電話で掛かってくるなんて、と悪びれる様子もないヒロトの正面にはこれまた反省の欠片も見当たらない間抜けな顔で、のんびりと魚の煮付けをつついている名前の姿があった。ご丁寧なことに服はヒロトに用意されたのか、制服ではなく大人びたブラウスとスカートになっている。

ヒロトの見立てが良かったのだろう、よく似合ったそれは名前の外見年齢を引き上げるのに一役買っていた。今こそ年相応の、間の抜けた幸せそうな表情で魚の切り身を口に運んでいるが表情さえ正せばちょっと顔の幼い高校生でも通じそうだ。…名前をここまで連れてきたヒロトの犯罪臭のことは考えないようにしようと思う。そんなことより、だ。


「帰るぞ」
「えええ、まだ食べてるのに私!」
「知るか!…ったく、ヒロトなんかに勝手に…」
「まあまあ。不動君もどうだい?この店の魚料理は結構いいよ」
「…………」


思わず黙り込んだ俺にヒロトが品書きを差し出してくる。「おい、コースばっかりなんだけど」「しょうがないだろう、そういう店なんだから」好きなものを頼んでくれていいよ、といたずらっぽくウインクしたヒロトからそっと目を逸した。結局何も腹に入れる暇が無かったから、まあ、…食わせてくれるってんなら遠慮する方が勿体ないだろう。


「じゃあ俺はこの懐石コースってやつな」
「兄さん遠慮しないなあ」
「うるせえ。腹減ってんだよ」


***


帰りはヒロトさんの車だった。それはというのも、兄さんがお酒を飲んで(ヒロトさんに飲まされた、という方が正しいかもしれない)潰れてしまったからだ。実はお酒で出来上がった兄さんは初めてで多少動揺したのだが、ヒロトさんは案外対処に慣れていた。「俺はお酒飲むとちょっとね、……あまり飲まないようにしてるからさ」口元だけ優しく緩めたヒロトさんは、よく酔っ払った円堂監督の介抱なんかもしているらしい。

後部座席のシートを占領して、すうすうと寝息を立てる兄さんのせいで私は助手席に座ることになった。私を家まで送り届けてくれるという運転席のヒロトさんと、ぽつぽつ会話しながら車を進めてもらう。やがて他愛のない会話が途切れた頃に、ようやく私の家がある住宅街まで戻ってきた。こんなに遅くなったのは久しぶりだ。


「お母さん、怒っていない?」
「あ、母さんは海外にいるんです。私はおば…祖母と暮らしていて」
「そうなんだ。じゃあ遅くまで起こしちゃったね」
「まだそんなに遅いって時間じゃないし、前もって伝えてあったんです」
「名前、」
「なんですか、ヒロトさん」
「無理に敬語使わなくていいよ、俺は」
「……う、でも」
「気にしなくていいじゃないか。そもそも最初に会った時は同い年だっただろう」
「確かに、そうですけど…」


気が付くと車は止まっていて、社内には兄さんのいびきが響いていた。「名前、どう?ヒロトさん、は気にしないけど他は普通に喋ってくれないかな」「でもヒロトさんは大人の人だし…」「不動君は大丈夫で、俺はだめ?」眉を少し潜めて寂しそうな表情をするヒロトさんの顔に、あの潜水艦の中で出会った少年の表情がちらついた。


「そういえば今日の晩御飯の代金はそこそこ―――」
「わ、わかった!…ヒロトさん」
「ふふ、……悪い気はしないなあ」


再び目の前でちらついた、幼い頃の彼の表情が優しく変わって目の前で揺れる。

頭を撫でる手は優しかった。「また一緒にどこか、食べに行ってくれるかい?」子供をあやすような、柔らかい声が眠気を訴える脳に響く。心地の良さに思わず頷くと、ヒロトさんは良かった、とまた笑った。



優しい笑顔
(2014/08/06)



「そういえば名前、不動君がどこに寝泊りしてるか知っている?」
「ううん、知らない。昨日はどこに泊まってたんで…泊まってたの?」
「鬼道君の家に押しかけたんじゃないかな。え、じゃあどうしよう。連れて帰ったら緑川に怒られそうだけどそうするかなあ…」
「ヒロトさん、うちで寝かせるから大丈夫だよ」
「…えっ!?」