02透明で優しい君の嘘



ナマエはデルカダール王家に代々仕える、世話役の一族に生まれた娘だった。祖母は城のことを誰よりもよく把握している、従者を束ねる長だった。王と女王の身の回りは全て祖母の管轄であり、母は生まれる前から王女の世話役だと決まっていた。
ナマエ本人も物心付いたときには既に城を歩き回っていたし、将来は祖母のように立派な世話役になるのだと心に誓っていた。デルカダール王もよくナマエに目を掛け、時折戯れに祖母の補佐としてナマエを扱い、世話を許したりもしていた。
ナマエが本格的に祖母から仕込まれ始めたのは、六つの頃だった。最初に任されたのはソルティコでの修行を終え、若くして兵士となり、騎士団で見習いをやっている少年たちの世話だった。祖母や母から掛けられた期待が大きいことを自覚していたナマエは、同じ世話役の少女たちの誰よりもよく働いた。自分の身体よりも大きなカゴに洗濯物を詰め込み水場まで運び、宿舎では乱雑に乱されたベッドを素早く丁寧に整え、夕飯は身体がすっぽり収まりそうなほどの大鍋にスープをつくる。そんな幼いナマエの姿を見た、騎士見習いの少年たちはナマエの働きぶりに感心し、よく声を掛け、妹のように可愛がっていた。グレイグもそのうちの一人だった。

当時グレイグは十六歳。パンデルフォンが滅び、デルカダール王に拾われてもうすぐ十年になるかという頃だったこともあり、グレイグは幼いナマエに自らの幼少期を時折重ねていた。だからだろうか、グレイグは周囲に比べ、特別ナマエを気にかけていたように思う。そんなグレイグに元々一人娘で、兄妹に憧れていたナマエが、グレイグの面倒見の良さに惹かれ、懐いていくのに時間は掛からなかった。グレイグも城に住み込みであったため、二人は多くの時間を共有した。時折城の中庭で見かけられた、並んでパンを齧る姿は、デルカダール王の目にも微笑ましいものとして映っていた。


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二人の間に降りてきた沈黙は永く、揺らめく蝋燭の白亜を溶かしてゆく。

ナマエの視線の先にある、グレイグの手の甲はいつも赤く腫れあがっている。それが遠征や、魔物との戦いのなかで負ったものではないことを、ナマエはなんとなく、察している。
王や民の眼前では気丈に振る舞い、常に先陣を切っていく。グレイグは今や絶望の闇に染まった世界に残された、一筋の光なのだ。多くの人間の心の支えになることを、希望の象徴と呼ばれることを受け入れたグレイグが一人の時にしか、感情を表に出せないことを、察せないほど短い付き合いではないのだ。何度壁を殴ったのかなどと、今更愚問だろう。

この世界に残された多くの人間は世界樹が落ちたことにより負った傷口を、癒す術を探している。しかし中には傷口を晒すことも出来ぬ、怪我をしていないと振る舞わねばならぬ人物も確かに存在するのだ。ナマエの知る限りの中でそれは、デルカダール王とグレイグだった。人の上に立つ者、人の前を行くものは、弱さを晒すことが出来ない。


――近しい人間の裏切りなど、尚更、口に出せるはずがないだろう。


「…命の大樹が落ちたあの日、」


その日のことは、ナマエもよく覚えていた。普段気難しい顔でナマエとの朝食を終える、ホメロスが終始機嫌よく、朝食を摂った朝は明るく、印象的な時間だった。普段の小言や厳しい視線がまるで嘘のように優しい、あまりに機嫌のいいホメロスに戸惑うナマエがぼんやりと食べたパンにはいつものようにジャムが塗ってあった。口端に付いたキイチゴのジャムを、普段は絶対に触れない指先で拭い、年頃の娘だろうと窘める、眼差しはまるで昔に戻ったような錯覚を覚えさせた。…その時にはもう、ホメロスの魂は魔に染まっていたのだろう。最期の記憶が美しいせいで、グレイグの言葉を全て呑み込むのには時間が掛かりそうだ。
情報量が多くても少なくても結論は同じ。掛かる時間はきっと、変わらない。ナマエは無言で、グレイグの言葉の続きを待った。

ぽつり、ぽつりとグレイグは語った。最初は気のせいだと撥ね飛ばしていた、違和感から始まったこと。悪魔の子と対峙するうち、その足取りを追ううちに、どこか違和感を覚えるようになっていったこと。長らく共に道を歩んできた、唯一無二の理解者であるホメロスとの会話のうちに、その違和感が生まれている事実に気が付いたこと。
デルカダール王と共に姿を消したホメロスの後を追い、聖地ラムダの長老を押し退け、聖域とされる始祖の森を進み、祭壇に捧げられたオーブの光で成された虹の橋を渡り、大樹の最奥で目にした光景をグレイグは、信じ難いものだったと語った。

禍々しい闇の宝玉を操り、悪魔の子とされた勇者、そしてその仲間達を嬲っていたホメロスに向けたグレイグの刃は、届くことはなかったという。崩壊をただただ見ていることしか出来なかったグレイグの、無力感は察するに余りある。背の傷は騎士の恥だろうと、薄く笑ったグレイグの肩口からは薄青の包帯が覗いていた。闇の魔力で刻まれた怪我の治癒は、他の属性魔法で負った怪我よりも治りが遅いという。薄青の包帯をグレイグに巻いてやっていたのは確か、逃げ延びた宮廷魔術師達の何人かだったとナマエは思い出す。回復魔法を練り込んだ包帯なのだろう。この状況では何よりも貴重な品であろうそれを、与えられている事実は、グレイグの立場の重要性をより、際立たせている。

デルカダール王に憑り付いていた魔族の刃に屈した後、どうなったのかという件については話を濁したグレイグだったが、世界の状況を見れば口にせずとも結末は分かる。悪魔の子は真なる勇者であり、この世が闇に覆われ、大樹が消えた事実はは勇者が破れた事実を意味するのだろう。ホメロスはきっと、もう二度と戻って来ない。ぼんやりとだが確信を得たナマエの中には不思議と、悲しみの感情が湧き上がって来なかった。それどころか、こうなることを知っていたような気さえする。

…デルカダール王は、グレイグは、何度自らを責めたのだろう。床に伏せているデルカダール王のやるせなさもだが、グレイグはまるで罪を贖うようにその身を戦場に投げ出している。


「話してくれて、ありがとう」
「…分かっているとは思うが、」
「誰にも言わないよ。…言えないよ」


どうしよう、王に合わせる顔が無いのね、わたし。

力無く笑ったナマエに首を振ったグレイグはしかし、黙ったままだった。デルカダール王がホメロスとナマエを一括りにしないであろうことは、ナマエだってよく知っているつもりだ。しかし合わせる顔が無いのは事実、今日も今日とてデルカダール王のテントに顔を出したことを振り返った瞬間、熱で視界がぐらぐらと揺れた。差し伸べられたグレイグの腕に捕まると、軽く肩を抱かれ、姿勢を正された。

ナマエはずっと、兄のようにグレイグを慕ってきた。それが恋慕に変わったことを、自覚したのはいくつの時だっただろうか。ナマエはいつも、グレイグを想っていた。故に触れられただけで、いつもは舞い上がっていた。しかし普段なら心臓が跳ねるであろう瞬間に、心臓は跳ねなかった。

胸の内を占拠する様々な感情を整理するために、どこから手を付けていいのか分からない。


20170924