11私はあなたがひたすらに欲しい



その日、ナマエはひどくリアルな、未来の夢を見た。


勇者の少年とその仲間がまず、最後の砦に訪れる。その報せを聞き、ナマエは侍女長にあるまじきことだが王の傍を離れて駆け出し、最後の砦の入り口に走っていく。
ナマエが砦の入り口で足を止めると、まず一番にグレイグと目が合うのだ。ナマエを見、ほっとした顔をするグレイグの隣には、――懐かしい白金の鎧に身を包む、ホメロスが立っているのが見えた。ナマエは胸の奥から込み上げるものを必死に耐え、駆け出した。ここでようやくグレイグの視線の先に気が付いたホメロスが、ナマエの名を小さく呼んだ。駆けてくるナマエにあの時と同じ、目を見開いて思わずといった風に微かに広げられた腕のなかに、ナマエは迷うことなく、飛び込む。にいさんと呼びたい気持ちと、馬鹿だと言ってやりたい気持ちと、おかえりなさいと赦したい気持ちがナマエのなかで混ざり合い、結局何の声にもならないまま、ただそれは涙になってホメロスの鎧の胸元にある、大鷲の翼を濡らした。ぎこちない腕が背中に回され、遠慮がちに抱き締められる。ナマエにだけ聞こえた小さな声が、悪かった、と赦しを乞うた。頷きで、ナマエはそれに返した。

ホメロスの罪は決して許されるものではない。犯した裏切りは露見していないだけで、王が一声上げればホメロスは即座に首を跳ねられただろう。
ナマエはそれを知っていた。自らの首も差し出す覚悟で、いっそ同罪として扱い、共に処分を受けたいと申し出るつもりでその胸に飛び込んだのだ。顔を上げ、ホメロスの胸を押し、涙を袖で拭ったナマエは背後の王を振り返った。多くの目がナマエに、ホメロスに、王に、そしてグレイグに向けられている。

王に頭を下げそうになったナマエを、グレイグの鋭い視線が制した。戸惑い、ホメロスと王を交互に眺めたナマエはすぐに、グレイグの沈黙の声を読み取り理解する。
ナマエが即座に許しを乞えば、ホメロスの罪が兵士に、民衆に露見する。それは多分、グレイグをはじめ、勇者たちの行動を無に還すようなものになってしまう。そもそも王がホメロスの裏切りを宣言していれば、ホメロスはここに戻って来られないはずなのだ。何より一番心に深手を負ったグレイグが、裏切りを何よりも許せなかったであろうグレイグが、ホメロスに刃を向けていないはずがない。だというのにホメロスは、従兄は生きて両足で地面に立ち、魔族に身を墜としたとは思えないほどいつも通りに、今目の前に立っているのだ。そうすることを選んだグレイグが、考え無しのはずがない。ホメロスは今、これまで積み重ねてきた、王からの"信頼"という評価を試されようとしている。


――よく戻ってきた、ホメロス


真っ直ぐにホメロスを見据え、目を微かに細めた王が紡いだ一言は、ホメロスにとって十二分に、そしてグレイグにとっても余りある栄誉だっただろう。
崩れ落ちるように跪き、頭を下げたホメロスの隣にナマエも静かに跪く。伏せた視線の先では感情が雫となりぽつぽつと、地面に吸い込まれていくのが見えた。やがてホメロスの隣に歩を進め、跪いた黒い影から落ちた薄紫の髪も、おそらくその小さな雨を見ていた。



ホメロスを慕う多くの兵士がホメロスを出迎え、無事で良かったと繰り返した。今まで、何を、どうしていたか。のらり、くらりというわけにはいかなかったが、曖昧に誤魔化すホメロスの姿を遠目に、最後の砦は久方振りに賑やかな夜を迎えていた。いつもよりも少し豪勢な食事で、全員がホメロスの帰還を祝った。グレイグと並び、酒を手に食事を口に運ぶホメロスが優しい、やさしい瞳でその場を見渡したのをナマエは王の隣で給仕をしながら見ていた。微かに視線が交じり合った瞬間、胸の奥にぽかぽかと暖かなものが宿った気がして、ナマエの口元も緩んでいた。王はそんなナマエに気が付かないふりをして、久しぶりの葡萄酒をグラスの中で少しだけ回した。

次の日の朝、ナマエの目の前には旅支度を整えたホメロスの姿があった。敵対はしたものの、ホメロスの力はウルノーガを倒すための、十分な戦力になる。勇者やグレイグの申し出に頷けはするものの、ホメロスと王は随分と悩んだようだった。グレイグの離脱により最後の砦に押し寄せる魔物達を処理する指揮官に、ホメロスが戻れば兵士達は随分と楽になるだろう。何より王を守る信頼できる力が王の傍にあるのは、心強い。
それでもウルノーガを倒すことが世界の平和を取り戻す一番の近道ならと、ホメロスは心を決めたようだった。かつて心を捧げた魔王に刃を向けること、敵対した勇者達の仲間となり、勇者を守る盾と共に再び、その歩を進めることを。


――鞄の中に、お守りを入れておいたの

――相変わらず、安く見られているな

――帰ってこなかったくせに

――……見送るのは嫌いだったんじゃないのか

――嫌いだけど、何も考えずにベッドに入って目を閉じるから、


お願いだから、今度はちゃんと帰ってきてね。

ナマエは喉から込み上げるものを必死に抑えて、口元で孤を描く。グレイグは何も言わずとも、帰ってきてくれる確信があるのに、前科さえも別としてこの美しい兄はどうしたって、戻ってくるのか不安になってしまうのだ。…――それって、たったひとり、私に残された、家族ってだけで、そうなってしまうもの?


「そのお守りは、グレイグに渡したのか」
「へ、…ううん。にいさんだけ」
「そうか」


どこか満足気に笑った従兄が、ナマエの腕を引いて近くに寄せた。「…よく聞け、ナマエ」まるで幼子が耳元で、秘密の話をするように、ホメロスは囁きを耳元に落とす。声が鮮明な色と共に脳の奥へと刻まれていく。


「いつからかは覚えていないが、お前を――…女として、見ていた」
「……へ、」
「グレイグを選ぶなら、それで構わない」
「っ、まって、にいさ、」


「愛している」


最後の言葉をしっかりとナマエのなかに刻み込んで、ホメロスはナマエの腕を離した。その目は鋭くナマエを射抜くくせに、口元はこれまで見たこともないほど、柔らかな笑みをつくっている。――…家族として。女として。ナマエのなかでがらがらと、何かが崩れていく音が聞こえた。それはおそらく言葉と感情で塗り固め、隠していたナマエの本心だった。愛している、愛している、愛している――…一度離れて、知ったこと。グレイグと共に過ごす未来だって、確かに幸せに溢れているだろう。可能性は無限大に広がっている。けれどそれはホメロスがそこにいることを前提としていたことに、ナマエはようやく気が付いた。

――私は、この人がいないと、きっと生きていけない。なぜならこの人を、













「愛して、…いたのね」


気が付くのが遅すぎたなどと、悔いたってどうすることも出来ないのに。

起き上がったナマエは目元から溢れる、涙を止める術を知らなかった。びっしょりと濡れた枕、火の消えたランタンが置かれた枕元、隣で寝息を立てる二十の侍女は夢の中なのだろう、幸せそうに口元を緩めている。
喉を抑え、声を殺してナマエは涙を流し続けた。世界から光が全て、奪われてしまったことにとうとう、気が付いてしまったのだ。決別を決めた心が、嫌だ嫌だと大きな声で叫んでいる。戻りたい、あのころに、二人で過ごしていたあの頃に、同じベッドに潜り込んだ瞬間なんて言わないから、せめて朝食を共にする日々に戻りたい。愛おしさに気が付いた今ならもっと、もっと、些細な時間を大切に大切に、過ごすことが出来るのに。

過ぎ去りし時は戻らない。
ナマエは必死に、呼吸のやりかたを思い出そうとしている。


20171001