10丁度今から消えるとこ



にいさん、何かあった?

別に、何もない。


早く食え、と急かすその眉間に、皺が寄るようになったのは、ナマエが十八になった頃からだろうか。

幼すぎる侍女長に少々の不満や心配ばかりだった周囲が、ナマエを長として受け入れ始めていた。ナマエがホメロスの支えやグレイグの存在あって立ち直ったこと、失った前侍女長の代役として自分なりに考え、出した結果で今の立場に就いたことは、認められるようになっていった。従者として恥ずかしくないように、またグレイグに振り向いてもらえるようにと自らの手入れを怠らなかったナマエは美しい娘である姿を、メイド服に隠して育っていった。そのころのナマエの従者以外の姿を、成長を一番傍で見ていたホメロスには、思うところがあったらしい。交わす言葉は日に日に少なくなっていった。ナマエから話し掛ける回数は前と変わらないが、ホメロスの答える言葉が少ないせいで、会話はすぐに沈黙のなかに消えていくようになっていった。

ナマエが年齢を重ねるにつれ、ホメロスはナマエと朝食を摂ることを雰囲気で、嫌がるようになっていた。それがナマエには納得いかなかったし、不思議でならないところだった。ナマエはホメロスを本当の家族として、従"兄"としてしか認識していなかったが、ホメロスはそうではなかったということなのだろう。一度懐に入れてしまったら、愛おしさを覚えてしまったら、それは一朝一夕で覆る感情と同じ場所には仕舞っておけない。


グレイグ、わたし、にいさんに嫌われているのかもしれない


グレイグがその言葉を聞く頻度は年齢を重ねるごとに増えたが、ナマエが二十三を超えた頃にはぴたりとその相談は止んだ。おそらくナマエは勘違いをしたまま諦めたのだろうとグレイグは思っていたけれど、自分がそれを指摘していいのか、グレイグにはよく分からなかったせいで何も言えなかった。そして、それは恐らく正しかった。
グレイグと同じく、ホメロスは三十三に成っていた。気まずそうに、しかし抜け出せない習慣として共に朝食を摂るナマエは、ホメロスの目にも十分美しい女として映ったし、同時にグレイグにすら触れさせたくないという独占欲の対象にも成った。ホメロスがナマエを見る目は、本人がいくら上手く言葉で隠そうとも、見る者が見ればすぐに分かったし、グレイグなんかには筒抜けだった。そしてそれを、ホメロス自身も自覚していた。

理性は自分を純粋に兄として慕う、妹をそのような目で見ている自分を汚らわしく思う。ナマエの幼い頃からの恋情の矛先が、鈍い親友に向いていることを知っている。
王がグレイグを優先するように、感じていた時期のピークだった。ホメロスは自分が何もかも、グレイグに劣るように感じていた。愛おしいと思うようになった女さえ、懐に入れる前からグレイグのことをひたむきに想っている。何故、こうも物事は潤滑に進まないのか?ホメロスの中にはナマエのことを大事にしてやりたいと思う自分だけではなく、グレイグへのあてつけと自分の欲求を満たすために、めちゃくちゃにしてやりたいと思う自分が確かに存在している。


グレイグ、ナマエのことだが

ナマエがどうかしたのか?

もし、あいつが、――……いや、


お前のことを好きだと言ったら、それを受け止めてやって欲しいと、ホメロスはいつだって言えなかった。グレイグもホメロスがそれを口にしようとするたび、何度も練り直した断り文句を告げずに終わって良かったとほっとするのだ。もしもグレイグがナマエの感情の矛先に気が付いていたらその言葉はまた違ったかもしれないが、それでもグレイグはホメロスを優先しただろうし、結局ナマエの気持ちを受け取ることはしなかっただろう。

ホメロスはナマエと過ごす時間が、朝で良かったと常々思っていた。太陽ではなく月の元で顔を合わせたら、その時ナマエを女として見てしまうのだろうという漠然とした確信があった。
王からの信頼もグレイグの次、ナマエの中で絶対唯一になることはグレイグがいる限り難しい――…積み重ねてきた時間と、得た物が釣り合っていないと思った時にはもう、綻びを元に戻すことは出来ないところまで来ていたのだ。








「記念に、この魔軍司令ホメロスが貴様らを直々に葬ってやろう!」


――目の前に立つ勇者を庇うように、グレイグの腕が伸ばされる


高らかに宣言したホメロスは、身体の中を巡る大きな力を手の平の上で静かに握り締めた。魔力を解き放てばもう二度と、ナマエに触れることは許されなくなるのであろう。…ここで躊躇うほどの覚悟なら、身を墜としてはいないのだが。

微かに漏れた乾いた笑いは、グレイグだけが拾い上げたようだった。グレイグを殺しても、自分が殺されても、ナマエはまた失うことになるのだ。悪いとは思わないし、ならばお前も俺と同じ気持ちを得ていれば良かっただろうと思うのが本音だが、微かに痛んだ胸が人間として残された感情の証明なのだろう。親を失い、新たに得た親代わりは親を殺したモノと同じモノになり、つくづく不運な女だなと、ホメロスはナマエを嘲笑う。脳裏に蘇ったのは、震えながら自らに縋る、あのユグノア悲劇の夜のナマエの泣き顔。あの歪んだ幼い顔も、きっとこの歪んだ感情を形作るひとつの要因だった。グレイグの目の前では、いつだって笑顔で振るまっていたくせに、俺の前では泣いたり縋ったり甘えたり、年齢を重ねてもそれを変えずに、少女から女になった上でそうすることの意味を自覚せずに。…――思い返せば思い返すほど、ナマエは疎ましい従妹だった。無理矢理に抱いて嫌われてしまったほうが、いっそ楽だったのかもしれない。それが出来なかったのが、愛だったのかもしれない。

今はもう、闇のなかに消えた真実を探すことは出来ないけれど。


20170930