09そうさ、君は銀河の中



それから先のことを、ナマエは今でもよく思い出せない。

ただ戸惑った顔のホメロスが伸ばした腕の温もりに触れた瞬間、止まった時が動き出したことだけは鮮明に覚えている。ホメロスが片手に握っていた剣を取り落とすほどの勢いで、その腕の中に飛び込み、腹に顔を押し付けて嗚咽を漏らしたのを覚えている。

後に知ったが、ホメロスは会議室から姿を消したデルカダール王を他の騎士達と共に探している最中だったらしい。叫び声が王の使っている客室の方から聞こえてきたので駆けつけてみれば、侍女長が部屋の前で既にこと切れているうえ、部屋の中にはアンクルホーンがこれまた王の侍女を掴み上げ、目の前で焼き殺しているではないか。王の部屋で殺戮を行った魔物に容赦は必要ないと、ホメロスは剣を抜き完全に不意を突いたらしい。ナマエにしか目が向いていなかったアンクルホーンは、自分を殺した男の顔すら知らずに光の粒子に成ったわけだ。

ホメロスの驚きは大きなものだった。殺されたのが身内だと知った時もそれなりに衝撃を受けたが、多くの被害を考えれば可能性が無いわけではなかった。主な驚きや戸惑いは、ホメロスから離れなくなったナマエの方に向いていた。
デルカダール王がグレイグを連れて自分達の前に戻ってきたときも、ナマエはグレイグの方に見向きもせず、ホメロスの傍を離れなかった。齢十の子供にあのような惨劇は確かに酷だったかもしれないが、それでもあれほど懐いていたグレイグよりも、ナマエはホメロスに縋った。そこには確かに血の繋がりから来る、安心や信頼を求める子供の姿があった。ナマエ自身やホメロスが考えるよりも、ナマエは"子供"だったのだろう。

今までそっけない態度だった野良猫が、恐怖や怯えをきっかけに、親猫ではなく傍に居た人間を求めるのと同じようなものだったのかもしれない。それでもホメロスはナマエに同情したし、何も言わずにただ自分の傍から離れないナマエをどうにか以前のような、元気よく仕事で城内を駆け回るナマエに戻してやりたい、戻せずともせめて生きる希望ぐらいは持たせてやりたいと思ったのだ。何より侍女長とその後継を一瞬にして失った、デルカダールの従者社会は大変な損失に頭を抱えていた。王は何も言わなかったが、周囲は多少早くとも、ナマエの上を目指す姿勢やその所以、仕事ぶりを見た上で、ナマエを次の侍女長にすべく育てたいと思っていた。酷だという声やまだ早いという声も多かったが、ナマエは多くのものを失い過ぎたのだ。ナマエに残されたものは、ホメロスとの血縁と、仕事だけだった。


いいか、よく聞け


すっかり喋ることを忘れてしまったかのように、口も心も閉ざしたナマエにホメロスはひとつ、提案をした。――十六になるまで、俺がお前の本当の"兄"になってやろう。親の代わりに、共に過ごしてやろう。代わりに十六で、成し遂げたいと思ったことを成し遂げろ。
ホメロスは六年間という期限付きで、ナマエの後見人になることを約束した。家族として共に過ごし、母や祖母の代わりにナマエの言葉を聞いてやろうと言った。戯れだったのか、本気だったのか、――…戯れだなんて冗談だ、あの言葉をそんな風に思ったことは一度もない。真摯な言葉を受け止めたナマエはホメロスのことを、ホメロスくん、と呼ぶことをやめた。代わりに、にいさん、と呼ぶことの出来る存在が生まれた。

親を失ったナマエがホメロスの庇護下に入ることに対し、王がすんなりと頷いたのも良かっただろう。…王としては、あまり興味がないようではあったなと、ナマエはずっと思っていた。マルティナ姫を失った悲しみからそうなったのかと今までは思っていたけれど、あの時の王は既にウルノーガなる者に身体を乗っ取られていたのだというから、確かに興味はなかっただろう。
そういえばグレイグはよく、ホメロスがきちんとナマエの心のケアをしているのか、心配してホメロスの部屋に転がり込んだナマエの元に何度も顔を出した。それが心から嬉しかったナマエはすぐに、グレイグへの恋情を思い出した。

けれどそれ以上にナマエが嬉しかったのは、優しくなったホメロスのこと。


にいさん、

…なんだ


同じ母親から生まれたわけではないが、母親繋がりの血縁だ。父親の顔を覚えていないナマエはホメロスに母親の横顔を重ねたし、ぽっかりと空いた心の隙間はホメロスを兄と呼ぶことで、少しでも埋めようと足掻いていた。ホメロスは不器用なりに、それに応えようとしていた。
悲劇の夜から季節は巡る。春が芽吹き、夏が照らし、秋が暮れ、冬が全てを包み込む。再び春の風が吹く頃、ナマエは幼くして人の上に立つべく、他の従者には出来ない、自分だけの"戦い方"を身に付けようとし、伸び悩んでいた。相談相手に選んだグレイグは、ホメロスに頭を下げることを勧めた。理由を聞き、納得したナマエはその日の晩、夕飯を共にした際、ホメロスに深く頭を下げた。どうか魔法を教えてください、と。

ホメロスはあまり間を置かずに、ナマエの願いを聞き届けた。その日の晩から密やかな、魔法の特訓は始まった。
ホメロスがナマエに選んだのはバギだった。風の刃を呼び出すのではなく、風を自在に操れるよう、緻密な詠唱式と呪文の知識を授けた。明確なイメージを描き、魔力操作に繊細なものを要求されるとしつつも、ナマエはホメロスと交わした約束のためにひたむきに取り組んだ。結果、それなりに短い期間で(それほど大きくはないかもしれないが)風や空気を自在に操ることが出来るようになったナマエは、いくつもの手を得たのと同じだった。

他の従者達とはまったく違う手法。ナマエは風を緻密にコントロールし、いくつもの作業を同時にこなし、王の目にも他とは違う色で映るようになった。ナマエが上級使用人に格上げされたのは十四の夏。デルカダール至上最年少で侍女長に選ばれたのは、十六の秋。
約束の通り、六年間を家族として過ごしたあと、ナマエは若くも侍女長となりホメロスの部屋を出た。一番心の脆かった時期に過ごした"兄"は"従兄"に戻ったけれど、にいさん、と呼ぶのは変わらなかった。同じ部屋で過ごす最後の夜、朝食だけは変わらず毎日共に摂りたいと願ったナマエを、ホメロスは跳ねのけなかった。


当時ホメロスはグレイグと共に二十六になっていた。結婚していてもおかしくない年齢だったホメロスに女っ気が無かったのは、デルカダールという王国にその身を捧げていたことはもちろん、"いもうと"と過ごす時間を大切にしていたからだろうと周囲は囁く。


20170929