涙に濡れるエリカ


最初、自分がなにをしたのか、私には何も理解が出来ていなかった。でも本能的にそうしたい、と思ったのはしっかりと覚えているのだ。柔らかく笑うその表情に、心臓をくすぐられたからと言えばオズロックは納得するだろうか。

戯れのように、冗談めかしてキスをしたのは私からだった。悪いことなんてないと思っていた。実際彼は顔を真っ赤にしたけど、拒絶をすることはなかったし…気を悪くした、って聞いたらそんなことない、って首を振った。その後、ちゃんとキスを返してくれて。そうして彼は私に好きだ、って言ってくれたのだ。私はそれに笑顔で頷いた。

彼は荒んだ私の心を溶かしてくれて、包んでくれて…復讐だとか、恨みだとか、そういった負の感情をどうでもいいと思わせてくれる人だった。彼に感化された私はイクサルフリートとしてファラム・オービアスに復讐をするのを馬鹿らしく思い始めていたのだ。だからオズロックに復讐をやめる、と告げに行った。イクサルフリートを抜けて、私は彼と二人でやっていく、と……言ったんだっけ?ちゃんと、最後まできちんと…オズロックに言えたんだっけ?記憶が曖昧で、あまりよく思い出せない。

彼のことが好きだ、って言ったのは覚えている。復讐をやめたい、と言ったのも覚えている。そこでオズロックの目の色が変わって…見たこともないような、恐ろしい怒りに燃えていたのも覚えている。……胸ぐらを掴まれた。――何かを、言われた。頬が痛みと熱に驚いて、次の瞬間には目の前が真っ暗になって……目を覚ましたとき、私はもう二度と戻ることがないであろうと思っていた自室のベッドの上にいた。荷物がほとんど残っていない、生活感の薄れた部屋。朦朧とする頭は、彼の顔を、声を、姿を思い出させてくれない。


ぐらぐらと視界が揺れる。頭が回らない。指先は動かせるけれど、足はぴくりとも動かない。


この症状には覚えがあった。まさかとは思ったけど多分、そうなんだろう。オズロックは私に開発させた薬を、私に打ったんだ…対象にはファラム人だけじゃなくて、裏切り者のイクサル人も含まれるんだって嫌味のひとつ、言ってやれないのが悔しくてたまらない。置き土産ってことで私の部屋に隠しといたのに、いつの間に見つけたんだろう。私をここに運んだのがオズロックならその時かな。……やっぱり、快く送り出してくれるなんて……夢を見すぎてたんだろうね。

オズロックを優しいと思っていた。でも、きっとそうじゃなかった。分かりにくい優しさは、多分わたしだけに向けられていたんだろう。それに気が付くことができなかった私は、自分で自分の首を絞めたんだ。…私はオズロックを兄のように思っていたけど、オズロックはそうじゃなかったって、もっと早く気がついていれば……後悔しても遅いんだろう。でも、悔やまずにはいられなかった。せめて彼の顔を思い出したかったけど、もうのっぺらぼうみたいに目の色も口の形もなにも浮かんでこない。


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ぱちぱち、ぱちん。

見知らぬ天井と、見知らぬ部屋。それから見知らぬ男の人。ここはどこだろう、私は誰だろう。まるで誰かが引っ越したあとみたいな部屋に、どうして私はいるんだろう。


「目が覚めたか」


目の前の男の人は、手帳のようなものを閉じて私に向き直った。頷くと、私が分かるか、と小さく問いかけてその人は顔を近づける。綺麗なその目のなかに吸い込まれそうになりながら、分かりません、って首を振った。そうしたら嬉しそうな、でも泣きそうな表情でそうか、ってその人は頷いた。なんだろう、そんなに寂しそうな顔をしないで欲しいのに。そんな顔をさせたくて、言ったんじゃないのに。…あれ?


「私はオズロック。お前は名前。ここはお前の部屋。…分かるな?」
「…あなたはオズロック、私は名前、ここは私の部屋…」
「理解が早いな」
「あの、ひとつ聞いてもいいですか」
「お前から敬語なのは気味が悪いが…なんだ」


言葉は少し刺があるけど、それを不思議と怖いとは感じなかった。「私、どうしてなにも覚えていないんでしょう」「……さあな」少しの沈黙のあとに返ってきた言葉を、噛み砕いて飲み込んでいく。これからどうすればいいのだろうとか、どうして私はなにも覚えていないのだろうとか、考えることはいくらでもあるのに出てくるのはしょっぱい涙だけだった。


涙に濡れるエリカ



(2015/02/22)

多分やった後に後悔するパターンのやつ