天使になる
※死ネタです


それは、よく晴れた夏の日のことだった。隣の病室がやけに賑やかだな、と体を起こしたのを覚えている。やがてその騒ぎが収まった後、煩くしてすみません、と俺の目の前に姿を現したのが名前だった。気にしないで、と言うと花が咲いたように笑ったその表情は脳裏に刻み込まれている。酷く印象的な笑顔だった。

彼女の見舞いにはいつも何人か来ていたようだった。彼女はとても友好的で、入院を共にする人間のあいだにすぐ溶け込んで馴染んでしまった。当然、隣の部屋である俺のところにも通ってくるようになる。体のどこが悪いのかは聞くタイミングを逃してばかりだったけれど、どこも悪くないように見えた。至って普通の女の子が、どうしてこんなところにいるのかと錯覚してしまうぐらいには明るかった。

名前はサッカー部に所属していたのだと言った。学年は京介よりひとつ上らしい。京介のことを聞くと、凄く優秀なプレイヤーだと褒めて称えていたから嬉しくなった。名前によれば京介は丁度、名前と入れ替わる形でサッカー部に加入したらしい。「私の病気と、剣城君の加入。ホーリーロードを戦うにあたって、どちらが重要視されるかなんて分かりきってる」マネージャーも数は足りてるし、と少し寂しそうに笑った名前の表情は初めて見るものだった。

丁度京介が来ていた時、名前が部屋に遊びに来たことがある。コンコンコン、と三回ノックされた扉にどうぞ、と返事をしてやると名前はいつも通り顔を覗かせた。そして京介と顔を合わせた後、困ったような顔をして出直しますと扉を閉じた。その頃にはもう、名前の元に毎日のように人は来ていない雰囲気があったと思う。母親が何度かと、父親の姿を何度か見かけただけだ。二人が揃っているところは一度しか見たことがないからどうにも、言えることはあまりない。



俺は名前に自分の足のことは言っていたけど、名前は俺に自分の病気について話したりはしなかった。聞いても、(年下のくせに)上手いことはぐらかしてくる。
丁度、季節が変わる頃だった。ホーリーロードを順調に勝ち抜いていく雷門とは正反対のように、名前はみるみる衰弱していたようだった。気が付けば隣の病室から、重い病気の部屋に名前は移ってしまっていた。太陽君は名前が悪くなっていると教えてくれたけれど、どんな病気か具体的には知らないらしい。

疲れているだろうに、毎日見舞いに来てくれる京介を少し引き止めた。名前について何か知らないかと聞いてみると、京介は…少し口篭もりながらも、どこか他人事を装って話してくれた。随分回りくどい説明だったが、名前が治らない病気にかかっていて、もうすぐ死んでしまうということだけはよく分かった。

すっかり妹のように思っていた名前が、死んでしまうのが信じられなかった。同時にあの笑顔が失われてしまうのも実感として湧いてこない。車椅子ですっかり遠くなってしまった名前の病室に向かうと、すっかり痩せた名前に出迎えられた。髪がすっかり無くなっている。あんなに綺麗に手入れされた髪が。

優一さん、と名前が以前と変わらない声を出した。「私、もうすぐ退院するんだよ」病気から、開放されるのだと名前は顔を綻ばせた。「そうしたら、好きなことが出来るし…制限なく、走り回れるし!サッカーだって出来るんだよ」早く楽になりたいなあ、と名前は嬉しそうに笑った。綻んで咲いた、あの笑顔。

名前は本当に、心から嬉しそうに笑った。名前の言葉と、笑顔と。最後に見たのはそれだけだ。



しばらくして、名前が居た部屋から名前のネームプレートが外された。何人もの人間が病院に出入りしていて、その中にテレビ中継で…京介と一緒にグラウンドを駆けていた、雷門中サッカー部の幾人かも見かけた。俺は、確かに名前の友人だったかもしれないけれども行かなかった。ただ名前の骨を焼いた、煙が上がるのは窓からうっすらと確認出来た。

それから俺の病室の扉が三度、コンコンコンとノックを鳴らされることは二度とない。名前が入院してくる以前のように、静かで穏やかな日々が戻ってきただけだ。名前がいてもいなくても、俺がこの病院にいるのは変わらない。

そう、変わらないのだ。何も変わらない。京介は毎日見舞いに来てくれるし、リハビリの内容だって大きく変わったりしない。俺の足も、…まあ、残念なことにいきなり治ったりはしない。一時的に賑やかだった周囲が、いつもの穏やかさを取り戻しただけだ。名前が死んだらといって、別に俺も死んでしまうわけじゃない。

少し心が軋んで、少し目から水を流して、少しだけ声を殺すだけ。それだけ。名前がいなくなっても病院食の味は変わらない。世界を一瞬で鮮やかにした、色彩が一瞬で消えただけだ。優一さん、と俺を呼ぶ声がなくなってしまったぐらいで生きる希望を失ったりはしない。でも、それでも。…ほんの少しだけ、生きているのが辛くなる。せめて一言、名前の明るさに希望を抱いたのだと。そう伝えられたら良かったのにとは思うけれど。



天使になる



(2014/09/23)

そうだ優一さんを書こう→いや待て死ネタが浮かびそう→おや…?
一応夢主はサッカー部のマネジだったようです。二年生だったみたいです。神童や霧野と親しかったようで、神童のことを好いていたようです。臆病者。