言葉ひとつで救われる世界



春。初めて彼のことを知った日だ。顔合わせである、クラスの自己紹介のはずだった。風丸一郎太です、と口元だけを緩めたその笑顔に心が一瞬で打ち抜かれたのだと思う。彼を見たその瞬間から、ぶわっと、えも言われぬ何かが私の心を吹き抜けた。風丸君の存在を認識した私の世界は、その日からきらきらと輝きはじめた。

夏。グラウンドで陸上部として走る、風丸君の姿はいつにも増してきらきらと光っていた。流れる汗が、揺れる髪が、全てがとても綺麗だった。私には触れられない美しさだったから、私は風丸君を見ているだけで満たされた。風丸君は本当に早くて、半端な覚悟じゃ追いつけない人だった。走っている時の彼の表情は凛々しくて本当に好きだな、と思う。

秋。風丸君と、隣の席になった。会話は、今までより格段に増えた。おはよう、また明日、ちょっといいか、シャーペンを貸してくれ――風丸君に話しかけるたび、心臓は面白いぐらいに飛び跳ねた。ばくばくと大きく鳴り響く音が、風丸君に聞こえないか心配になった。でも一ヶ月が過ぎようかという頃には、心臓の音にも慣れていた。おはよう、また明日ね、なにかあった、一本でいいの――笑顔で言葉を返す余裕が出来た。笑いかけてくれる風丸君の、その笑顔を見るだけで幸せだ。

冬。席は随分と離れた。会話をする機会は少し減ったけど、風丸君から話しかけてくれることが多くなった。私はどんなタイミングで彼に声をかければいいのか分からなくて喋りかけられないから、風丸君が話しかけてくれるのが嬉しかった。寒いな、寒いね、寒いと自販機のコーンポタージュが美味くなるな、私はおしるこも好きだな――他愛もない会話が少し続いて、すぐに別れてしまうから噂にもならない。密かな私の楽しみは、風丸君と共有する時間だった。ごく一般的な、友人のポジションが確立されていた。

二度目の春。私達は二年生になった。休みのあいだずっと心配していたクラス分けも、心配が杞憂だったかのように引き継ぎの発表があった。「またよろしくな、苗字」優しい風丸君の声は、また心臓を飛び跳ねさせた。よろしくね、と返したあとに震える指先を後ろに隠す。嬉しい。飛び跳ねてしまいそうなぐらいに嬉しい。私は、幸せな恋をしている。
風丸君は可愛い後輩が出来たのだと、嬉しそうに報告してくれた。風丸君にちょこちょことくっついて回っている、褐色肌の綺麗な子に一瞬嫌なものが背中を伝ったけれど、女の子ではなくて男の子だと聞いて少し驚いた。でもそういえば、風丸君も女の子に見まごうぐらいに綺麗だったと思い出した。宮坂君はあまりはっきりしない私のことが、あまり気に入らないみたいだ。

やがてクラスに豪炎寺君という、転校生がやってきた。円堂君が大喜びではしゃいでいたけど、豪炎寺君はそっけない態度だ。彼は私の隣の席になり、先生は私に様々な事を任せた。私が驚いて戸惑っているうちに、円堂君がその役目を私からすぐに攫っていった。風丸君が円堂君の走り去る姿を見ながら、強引で悪いなと優しく笑った。二人は幼馴染なのだと、聞いたのを覚えていたから私も助かったんだよと小さく返した。風丸君は、私が風丸君だけではなく、人と関わるのが苦手なことを知っていた。

最初、俺嫌われてるんじゃないかって思ったんだよと風丸君が茶化すように言う。そんなことない、と首と両手を必死に振ると、今は苗字がシャイなの知ってるから、と風丸君は笑うのだ。最初に比べると笑うようになったよな、と風丸君が嬉しそうに言う。きっと他意はない言葉なのに…私は真っ赤になって、そうかなあと返すことしか出来なくなる。
風丸君は助っ人として、サッカー部に入った。雷門サッカー部の初めての試合は、雷門のグラウンドで行われた。全国一位の帝国学園との試合は悲惨なもので、風丸君は円堂君を庇ってボールをまともに受けた。私は何も出来なかった。けれど豪炎寺君が参戦した後、一点を返した雷門に帝国学園側が棄権をした。それからサッカー部にしばらく居ることになった風丸君は円堂君と一緒に絆創膏を貼り付けて登校していた。

夏が終わろうかという頃。フットボールフロンティアで優勝をした風丸君を出迎えるために学校に残っていた。体育館で雷門の試合を見守っていた生徒たちのうち、ほとんどは暗くなった空に不安を感じて帰ってしまっていた。私はおめでとうを伝えるために、サッカー部のみんなに作った差し入れのケーキを準備してそわそわとしていた。理事長や雷門サッカー部のOBだという人たちを中心に、雷門サッカー部をお祝いするために部室でパーティの準備をしていたのだ。後30分ほどで帰ってくるか、と校長先生が言った次の瞬間だった。

どおん、と何かが爆発でもしたかのような音が響いた。一瞬全員が呆けた後、大人達が恐ろしい顔をして飛び出していった。校長先生が次いで待ってくださいと飛び出していって、宮坂君と私は顔を見合わせて恐る恐る外へ足を踏み出した。グラウンドでは伝説のイナズマイレブンに、見たこともない服装と髪型の人影がサッカーの試合を申し込んでいた。宇宙人だ、と名乗った緑色の髪の少年に碇さん達は次々と薙ぎ倒されていった。

真っ黒なサッカーボールが宙を舞った。次の瞬間、降り注いだのはガラスの破片だった。咄嗟に引いた宮坂君の腕にガラス片が掠ったのを目で認識したと思ったら、私の真上にもガラス片が降ってきたのだ。まるで映画みたいだと思いながら、私は宮坂君の腕を引いた。宮坂君が怪我をしたら、風丸君はきっとその選手生命を心配するんだろうと思ったのだ。切れて血が滲んだ場所は痛かったけれど、きっとあんな宇宙人より風丸君や円堂君、豪炎寺君の方が強いと信じて通りを走り抜けて病院に駆け込んだ。宮坂君は恐ろしさをごまかすように、私を陸上部に誘ってくれた。

笑うしかないような切り傷がいくつか出来た。やがてしばらくして、病院に松野君や少林君、影野君や宍戸君といった雷門イレブンのメンバーが運び込まれてきたのを見た。円堂君や豪炎寺君、…ちらりと見えた風丸君にも怪我がたくさん出来ていた。声をかけることは出来なかった。
風丸君や円堂君達は、宇宙人を倒すべく全国を回るらしかった。当然付いて行きたいなんて言えるはずもなく、病院の廊下ですれ違った風丸君に怪我を隠して頑張ってと言うことしか出来なかった。風丸君は宮坂を庇ってくれてありがとうとだけ言って、どこか辛そうな笑顔を私に向けた。心が痛い。


秋の真中。風丸君がいなくなったと、木野さんが私にメールをくれた。

木野さんは私の気持ちを知っているから、教えてくれたんだろうと思う。(私も、木野さんの思い人を知っている)その報せを聞いた瞬間、風丸君のあの辛そうな笑顔を思い出した。よくよく思い返せば、あれは笑顔なんかじゃなくて無理やり口元を歪めただけのものだった。風丸君が心配で、私は病院に駆け込んだ。染岡くん達は退院していた。

学校、鉄塔広場、商店街、駅前――どこにも風丸君はいない。空は既に暗くなっていて、ますます不安を煽られた。縋るような思いで河川敷への道を歩いていると、鉄橋から見下ろす河川敷のグラウンドに風丸君によく似た人の姿がいるように見えた。黒いマントを羽織っていたけど、髪を結んでいなかったけど、走り方が少し違うように思えたけど――あれは風丸君だと確信があった。

黒いマントを羽織った人影は、鉄橋を渡って階段を降りようとしていた私の姿を認識したみたいだった。動きを止め、まるで私を待っているようだった。近寄って息を吸い込んだ。風丸君、と小さく小さく、自信の無い声は耳に届いたかすらも危うい。
やがて振り返った人を、髪を下ろした風丸君だと認識するまで少し時間がかかった。苗字、と私の名前を呼んで風丸君は妖しく微笑んだ。まるで風丸君が、風丸君でなくなってしまったようだった。この人は風丸君だけど、風丸君ではなかった。

何も言い出せなくなった私に、風丸君が近づいてきた。苗字もだよな、と小さく呟いた風丸君がすうっと目を細める。「自分の怪我を顧みないで、宮坂の手を引いて走ったんだっけ?案外、お前も真っ直ぐだよな。……宮坂とはどうだ?」どんどん距離を詰められて、風丸君は怖い声で私に迫った。私はというと混乱して、どうって何がどうなんだろうとか、言葉の意味だとか、考えがこんがらがって頭がぐちゃぐちゃになっていた。「…答えられない?」「そ、んなことない。風丸君の…風丸君達の、話ばっかり」実際その通りだったし、何だかんだ、心を許してくれた宮坂君と風丸君の話で盛り上がっていることは多かった。なのに、風丸君は気に食わないと言いたげな顔で私を睨む。

その目がいつもの優しい風丸君じゃなかったから、怖くて思わず目を逸した。瞬間、そうかと風丸君が呟いた。何か、取り返しのつかないことをしたかのような気持ちになって目線を戻す。紫色の光が、風丸君の体を包んでいた。二度と来るな、と風丸君が酷く冷たい声で言ったのがそこでの最期の記憶だ。目が覚めた時、私は家のベッドで寝かされていた。ずきずきと痛むお腹の理由は考えないことにした。



仮校舎の出来た、冬の始まり頃。

久しぶりに会った木野さんから、風丸君達の理由を聞いた。今回の騒動の一番の原因である、よくない石のせいで性格を捻じ曲げられていたのだという。それでもその石を受け入れることを決めたのは風丸君だから、苗字さんに酷いことを言ったのは気にしていると思うわと木野さんが少し辛そうに言った。遠目から、まったく近寄れないし近寄ってくれない風丸君を見た。円堂君達とは和解したみたいで、少しぎこちないながらも普段通りに接している。宮坂君にも普段通りらしい。私だけ、疎外感を感じるはめになった。

少し休みがあって、校舎が新しくなっても風丸君とは会話ひとつ交わさないままだった。やがて少年サッカーの世界大会の準備で世間が盛り上がりはじめた頃、雷門で日本代表選手の選抜会を行う報せを聞いた。当日、行くか行かないか迷った私は宮坂君に背中を押されて会場へ向かった。たくさんの選手のなかで、風丸君はやっぱり輝いて見えた。私はやっぱり、風丸君が好きみたいだった。
風丸君は日本代表に選抜された。宮坂君が嬉しそうにはしゃいでいて、私も嬉しい気持ちになった。風丸君が私のことをどう思っていようと、もうなんでもいいように思えてきた。風丸君がどうであれ、私が風丸君を好きなのは変わらない。

日本代表は予選を着実に勝ち抜いていった。宿舎は新しくなった雷門中の校舎だった。差し入れを持ったまま、しばらくグラウンドの見える場所をうろうろとした。風丸君はサッカーボールを追いかけて、汗を流していた。ぼんやりと最初の頃を思い出して、風丸君はサッカーを世界のレベルまで引き上げたんだと感慨に浸った。木野さんや音無さん、雷門さんに会えたら差し入れを渡して帰るだけだった。しばらくそれを繰り返していると、木暮君という京都の子と仲良くなった。いっつも風丸さん見てるよねえ、と言い当てられてグウの音も出なくなったのがきっかけである。私が木暮君に狼狽えていると、助けてくれるのは決まって音無さんだった。

そのうち音無さんから私と風丸君のことを聞き出したらしい。そういうのはなるべく早く解決した方がいいぜ、と珍しく真面目な顔で小暮君が言い出した。別にこのままでもいいと言うと、木暮君はバカじゃねえの!と大きい声で叫んで私に何かを投げつけて走って行った。投げつけられたのはおもちゃのカエルで、私はそれをどうすることも出来ずにその場に立ち尽くすしかなかった。

しばらくして、木暮君が戻ってきた。「はい、名前。風丸さん」……よりにもよって、風丸君本人を木暮君は連れてきたのである。はいどうぞ、とばかりに差し出された風丸君も目を丸くしていた。そのまま私の手からおもちゃのカエルを回収し、木暮君は練習に戻ってしまった。残されたのは呆然とする風丸君と、混乱のおさまらない私だけだ。

数分ほど、私達は見つめ合っていた。気まずいなんてレベルじゃない。もう随分言葉を交わしていなかったせいで、何を喋ればいいのか分からなくなってしまっていた。最期の会話が色々と問題があったのかもしれないけど、私は二度と風丸君と会話をしないことを覚悟していたからこの状況を切り抜ける術が分からなかった。
やがて、口を開いたのは風丸君だった。ごめん、と言って風丸君は目を逸した。「…痛かっただろ、腹」罪悪感を孕んだ声に首を振った。もう痛くないんだよ、風丸君。痛いのなんて忘れてしまったの。私はいいの、もう気にしてない。だから目を逸したまま、そんな寂しそうな顔しないでよ。それに、謝るのは私の方なの。


「風丸君、私風丸君が辛いのに何も出来なかった」
「……それは」
「ずっと、見てるだけしか出来なかったって言い訳してるの。見てるだけしかしなかったくせに。…言いたいこと、いっぱいあるけど言えない」
「言ってくれよ、苗字!俺だって、お前に、あんな…!」
「風丸君は悪くない!」
「悪いのは俺だ!苗字は、何も」


辛そうな顔をする風丸君にまた心臓の軋む音がした。ねえ、風丸君。私はあなたに笑って欲しいの。罪悪感なんて感じて欲しくない。「…風丸君は、もう自分を許したって」「……」もしかして、悪いことを掘り返したのは私?じゃあ結局、私が

苗字は悪くないんだ、と風丸君が繰り返した。「苗字が宮坂と仲良さそうに喋ってるの見て、変な気持ちになって…それがずっと残ってて」おかしいだろ、と諦めたように口元を緩めた風丸君を見つめた。「苗字のこと、好きになってたんだ」…目の前の人は、本当に風丸君だろうか。「だから多分、あれは嫉妬だ。…見苦しかっただろ?」そんなことない。そんなことない。嬉しくて、嬉しくて死んでしまいそうだ。顔がどんどん熱くなっていくのが分かる。

「風丸君!」嬉しくて緩む口元を隠しきれない。弾んだ声の私に、面食らったような風丸君に向き直った。「見苦しいんなら、私だって見苦しかったよ!初めて会った時から今まで、ずーっと風丸君が好きなんだもの。見てるだけでいいって思ってたから、…もう諦めかけてたから、でもずっと好きだったから…風丸君は今、私を救ってくれたんだよ」


言葉ひとつで救われる世界



(2014/07/13)

長い


しばらくして、風丸達は世界大会の本戦に進むためにライオコット島へ旅立った。向こうは夏だと、風丸くんは写真を添付してメールをくれた。私は誰もいない教室から、ライオコットと繋がる空を見上げる。風丸君は、世界で一番になったらもう私なんて振り向いてくれないかな。そんなことないかな。そう言ったら宮坂君は、先輩馬鹿なんじゃないですかと呆れたように言って笑った。

イナズマジャパンは順調に勝ち進んでいる。テレビで見る風丸君は、なんだか遠くなってしまったみたいだ。でも私は風丸君を待つ、その時間が案外好きだ。風丸君が帰ってきた時、笑顔だったらそれでいいかな。