壊れてしまうのは分かっている



――心臓が、軋んだ音を響かせる。

誰かが私を嘘つきだと罵った。それに続いて、また別の誰かが信頼ならないだの、屑だの、……嘘つきだのと罵っている。耳を塞いでも声は私を取り囲み、何度も何度も同じ音を私の頭上に振りかけるのだ。そして、私はそのナイフに似た鋭い言葉から、自らの無防備な心臓を、守ることが出来なくなっている。

誰かが、何度も何度も私を罵った。声の主を私は知っていた。誰よりも、大好きだった。…けれどそれは私だけだった。私はただの、嘘つきだった。だからきっと、嫌われてしまったんだと思う。耳元を塞いでごめんなさい、と薄っぺらい笑顔で囁いた。気持ちなんて、込める分ももうずたずたに切り裂かれているのだ。最期は、道端に捨てられてドブに流されていくだけだよ。そうして、誰からも存在を忘れられてしまうんだ。


**


「………」
「あ、起きた」


ふわりと、おひさまの香りがした。不思議そうな顔をした、病院着の雨宮君がいる。

ぎりぎりと痛む心臓は、随分と今朝の夢に魘されているみたいだった。痛みがどうにもならないのを知りながら、自然と手は自分のパジャマの胸元を掴んで握り締めていた「…心臓?」「ううん、びっくりしただけ。ちょっと悪い夢を見たから」眉を潜めてナースコールに手を伸ばしていた、雨宮君を落ち着かせようと顔に笑顔を貼り付けた。大丈夫ならいいんだけど、と困ったように笑う雨宮君は少しだけ眩しい。


「名前が来なかったからさ、不安になって迎えに来たんだ。夜更かしでもしたの?」
「……ええと、まあ。そんなところ。昨日は暑くて眠れなかったから」
「そう?早く寝ちゃいなさいって冬花さんに言われたからな…じゃない!そんなことより!今日は二人で抜け出して、僕が名前にリフティングを教えるって!」


そういえば、そんな約束をしていたんだった。思い出した後、目をきらきらと輝かせる雨宮君から少しだけ距離を置きたくなった。昨日偶然雨宮君が、ボールを華麗に操っているのを見てしまって、流れで褒めたら教えてあげる、ってことになったんだっけ……嫌な夢を見たせいで、私は外に行く気力をすっかり無くしてしまっていた。でも今更断る事も出来ない。

ほら早く外に行こうよ、と腕を掴んだ雨宮君が、眩しいぐらいの笑顔で笑う。うん、ちょっとだけ眩しすぎるかなあ。このままだと私は目が眩んで、潰れてしまうような気がした。雨宮君は、どうして私のところに来てくれたんだろう。今、どうやって私に笑顔を向けているんだろう。裏表の無さそうなその笑顔は、私に恐怖を抱かせる。

私が今日はやめておく、って言ったら…この笑顔はどうなるんだろう。雨宮君は寂しそうにするんだろうか。それとも怒るんだろうか。――嘘つき、って言うのかな。言われたく、ないなあ。でも外には行きたくなくて…でも雨宮君に嘘つきって思われるのは嫌だな。

私が少しだけ、我慢をすればいいかな。きっとそれが正解だ。誰も傷つかないし、誰も不愉快にならないし、誰も私を責めないだろう。誰かに責められるのが怖くて、怖くて怖くてしょうがないから、雨宮君にも微笑んだ。分かったから、と頷くと嬉しそうな顔を隠そうともしない雨宮君と目が合う。ああ、怖いからこっちを見ないでよ。


**


名前は着替えるから、と言って僕を部屋から追い出した。「楽しみだなあ」ボールを後ろ手に隠して、今からのことを思うだけでわくわくする。今日の精神科の病棟の廊下は怖いくらいに静まり返っていたけれど、それに気がつかないぐらいに僕の心は弾んでいた。僕は、名前が好きだった。笑顔を向けると、笑顔を返してくれる。どうして名前はこんなところにいるんだろう、と時々不思議に思うぐらい、名前は普通の健康な女の子に見える。精神を患っているんだと冬花さんは言うけれど、僕にはまったくそんな風には見えない。

どこか脆そうで、儚くて、でもちゃんと名前は実体を持ってそこに立っている。今もこの扉を一枚隔てた向こう側で、パジャマではなく普段の服に着替えるんだろう。今日はどんな服を着てるのかな。昨日の服はシンプルだったけど女の子っぽくて、可愛かったな。今日はボールを使うんだから、きっとズボンなんだろう。きっと名前になら、なんでも似合う。

「名前」コンコン、と手の甲で扉をノックしてみる。「準備はできた?」「…もう少し待って」「ああ!」見えないのは知っているのに、大きく頷いて扉にもたれかかる。ああ、早く名前はここから出てこないかな。扉を開けて、そうしたら僕がいて、びっくりしてその後、一緒にボールを追いかけて。―――普段の、小さい笑顔もいいけど。もっと、なんというか、本質的な―――もっと大きな、可愛い笑顔を僕に見せてくれたりしないだろうかと思ったり。

ああ、どれだけ今日を待ち望んだことだろう。ずっと遠くから見ているだけだったけれど、名前から近づいてきてくれて。名前で呼ぶことを許してもらえた。それだけじゃない、僕らは今から、二人だけの秘密を共有するのだ。この秘密は、きっと僕と名前をもっと近づけてくれるだろう。ああ、早く名前の着替え、終わらないかなあ。



壊れてしまうのは分かっている



(2014/06/18)

ちょっと暗いのが書きたくなって、精神を病んで入院してるヒロインとちょっと子供な純粋無垢な束縛感のある太陽くん。どっちかが先に壊れてバッドエンドな未来しか見えない