いつもよりも随分と重い瞼を開けると、それは確かによく知った天井だったが何かが違う。周りを見渡して、ああそう言えば、と頭を抱えた。お隣さんの好意に甘えまくってしまったのだ。
 自分のために敷いて貰った布団を畳み、ゆっくりと音を立てないでドアを開け、廊下に出ると静まり返っていて僅かにだが寝息が聞こえた。
 どうしたものかと悩んで、取り敢えずリビングに向かうとテーブルに鍵が置いてある。近くにあったメモ用紙にお礼を書いて鍵はポストに入れ、隣の自分の部屋に戻ることにした。

 自分の部屋に入った瞬間、色んな事を思い出して止め処なく涙が溢れてきた。この部屋の匂い、景色、五感で感じる全てのものが彼に繋がる。ここにはあまりにも思い出が詰まりすぎているのだ。
 それは本当に突然だった。早く帰れそうだと聞いていたから、彼の好物を作るためスーパーに出かけようと家を出る瞬間に電話が鳴った。いつもと違う彼の声のトーンに違和感を感じていたが、まさか来月式を挙げる予定だった相手に別れを告げられ、しかも理由が奥さんに子供が出来たから。
 目の前が真っ白になるというのはこの事なのだろう。
 申し訳なさそうに、しかし何処か淡々と別れを告げる彼に思考がついていけない。やっと物事を理解したときには一方的な電話が切られて6時間後のことだった。
 ずっとそこにあった幸せが、信じていたものが目の前から消えるのはこんなにも一瞬の事なのだとはじめて知った。
 重い足を進め、なんとかリビングに到着するとテーブルに膨らんだ封筒が置いてあった。中身を見ると札束が入ってある。私がお隣さんのお世話になっている間に彼が来たのだろう。手切れ金のつもりだろうか。
 怒り、悲しみ、そしてまだ消え去らない愛情。ありとあらゆる感情が爆発して、封筒を握り潰しながら声をあげて泣いた。

 どうやらあのまま泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。肌寒さで目を覚まし、窓の外を見るともう暗くなっていて、窓に映った物凄く浮腫んだ顔の自分を見て思わず笑ってしまった。
 取り敢えずお風呂に入ろうと服に手をかけると、またお隣さんのお世話になったことを思い出した。パーカー、シャツ、スウェット、そして下着のパンツまで、私が今着ているものは全て彼のものだ。
 洗濯して返しますとメモに残したものの、パンツは返されても困るだろう。ウエストのゴムには有名なブランドのロゴが入っていて、同じブランドのものを新品で返さないといけないなと考えながら湯船に浸かった。
 たくさん泣いて、お風呂でさっぱりすると、ほんの少しだが心の靄が晴れて余裕が出てきた。
 今の自分の状況を整理すると、男にフラれ今月中に、つまり2週間以内に新しい住居を見つけここから出て行かなくてはならない。しかもトドメは無職。
 泣きたいが泣いてる暇なんてないのだと自覚した。

 自覚してからの私は早かった。次の日の朝、元カレから貰ったアクセサリーやバッグを部屋中に並べて質屋の出張査定を呼んだ。提示されたそれなりの額に承諾をして、その後はインターネットで気になる求人をチェックして履歴書を買いに行った。
あとはお隣さんへのお礼とパンツだ。
 付き合って1年ぐらいで一緒に暮らさないかと誘われて2人で不動産屋を周り、あのマンションに決めた。家賃も光熱費も食費も全て負担してくれて、私の役割は家事全般だった。それにしても今思えば元カレは二重生活だった訳で、仕事が忙しくて帰れないという日が多々あったが、きっとそういう事だったのだろうなと思うと鼻の奥がツンと痛くなった。
 しかしこんな街中で泣く訳にもいかないので、一心不乱にデパートの地価を目指し、着くと隅々まで見渡してお隣さんに渡すお礼の品を考える。
 あのマンションに暮らして1年間が経つが、挨拶制度の付き合いなので好みなんか分からない。
 私が知っているお隣さんの情報と言えば名字は藤ヶ谷さん。下の名前は知らない。見た感じ私と同い年ぐらい。
 いつもハイブランドのものを身に着けていて、帰ってくるのも出て行くのも不規則だから彼も元カレと同じ様にどこかの会社の社長でもしているのだろうか。
 かなりのイケメンだが、私の知る限り女の影は無い。でもまあモテない訳がないだろうし、家に連れて来ないだけでいるのかも知れない。だとしたら彼女以外の女を一泊させてしまうなんて本当に悪い事をしてしまったなぁと思う。
 あまりの出来事に自棄になってしまい慣れない酒を飲んだ挙句、更に自棄になって手ぶらで外に出ようとした。行く当ても何もなかったがただあの部屋にいるのが辛かったのだ。
 冷静になればなるほど馬鹿な事をしてしまったと思うし、お隣さん……、藤ヶ谷さんにはひたすら感謝だ。だからこそ彼の好物を贈りたいがいかんせん好みもなにも知らない。悩んだ挙句、無難に焼き菓子と例のブランドのお店に寄ってパンツを買って家に帰った。

 悪い事というのはこんなにも重なるものなのだろうか?あの人生最大の大事件から5日が経ったが仕事どころか物件も見つからない。致命的に悪い訳では無いのだが決め手に欠けるといったところだろうか。仕事も、いいなと思った企業に電話をしたら、もう採用者が決まっていたりと何かとタイミングが悪い。
 仕事も部屋も妥協はしたくないのだがもうそんな事を言っている場合では無くなってきている。タイムリミットはあと9日。
 最悪、それまでに間に合わなくても手切れ金と質屋に売ったお金で暫くはビジネスホテルなどで過ごす事は出来る。しかしなるべくあのお金には手をつけたくはない。いざという時のために残しておきたいが、今がそのいざという時なのだろうか。
 なんだかもう全て嫌になってリビングのフローリングにそのまま寝そべった。視界に入った紙袋を見てお隣さんの事を思い出す。
 お礼を買った日から毎日部屋を訪ねるのだが中々タイミングが合わず、出会えない。賞味期限はまだ大丈夫だが早く渡ししまいたい。本当に不規則な生活を送っているようで今までも数週間顔を見ないことだってざらにあった。このまま私がここを出て行くまで出会えない可能性も十分にある。
 ドアノブに掛けておこうかとも思うが、万が一盗られても困るし、やはり直接お礼を言うべきだろう。今日はまだ訪ねていない。もしかしたらいるかもしれない。
 気分転換もかねてお菓子、パンツ、借りていた着替えがそれぞれ入った紙袋を3つ持って玄関を出ると、ちょうど帰って来たのか鍵を開けている途中の藤ヶ谷さんがいた。
 グッドタイミング。会釈をして近づくと、藤ヶ谷さんも軽く会釈をして手を止めてくれた。
「この間はすみません。本当にありがとうございました。これ借りていた服と、つまらないものですがお礼です。よかったら食べてください。あ、あとパンツ。返されても困ると思ったので新品です。同じデザインのは無かったんですけど……」
「俺は全然大丈夫ですから気にしないでください。むしろ色々気を使って貰っちゃって……。ありがたく頂戴します」
 紙袋を受け取ると今度は深々とお辞儀をしてくれて、私もつられて頭を下げた。これでなんとかあの日の借りは返せただろう。
「もうここ出て行くんですか?」
「出て行かなきゃなんですけど中々部屋も仕事も見付からなくて。結構窮地に立たされてるのに選んじゃうから悪いんですけど。ダメな時はとことんダメなものなんですね……」
 私の言葉に藤ヶ谷さんの表情が少し曇った。それもそうか。聞かれるがまま、それなりに重い話をしてしまった。
「じゃあ私はこれで」
 困らせてしまった事が申し訳なくて、もうこの場を切り上げようとしたのにそれを藤ヶ谷さんが引き留めた。
「……料理ってできます?」
「え?あ、はい、一応一通りは」
「掃除は?」
「好きですし得意です」
 一体なんだと言うのだ。突然始まった質問に不思議に思って藤ヶ谷さんを見ると、眉間に皺を寄せて暫く何かに悩んでいたようだが、すぐに踏ん切りをつけたようで真っ直ぐ私の瞳を見つめた。
「納得できる仕事と部屋が見付かるまで俺の部屋に住み込みで働きません?」
「へ?」
「家賃、光熱費、食費なにもいりません。掃除、洗濯、料理、家事全般をお願いします。勿論お給料は渡します。どうですか?」
 絶句、というのは恐らく今の私の状態を言うのだろう。突拍子の無さすぎる提案に開いた口が塞がらない。冗談かと思ったが目の前の藤ヶ谷さんは真剣な顔をしている。
 どうして?なんで私?色んな疑問がぽんぽんと頭に浮かぶが、窮地に立たされた今、こんなおいしい話はもう無いと腹を括った。
「お、お願いします」
「こちらこそ」
 こうして私と藤ヶ谷さんの奇妙な同居が始まった。







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