ミュージックビデオの撮影が終わったのは深夜1時。そこから着替えたり帰り支度をして、自宅マンションに着いた時には2時を回っていた。
 オートロックを解いてエントランスに入り、エレベーターに乗ると少し身体の力が抜けて徐々にリラックスモードへと突入する。
 駅まで徒歩5分、2LDK。家賃、まあそれなりに。他の住人との付き合いも比較的良好。会えば挨拶をする程度だが、俺を知っていてもそれ以上の干渉は無い。住んでそろそろ1年と半年が過ぎようとしているが、色んなことを踏まえた上で歴代のマンションのなかで一番住み心地が良かった。
 軽快な音と共に自分の部屋があるフロアでエレベーターのドアが開くと、こんな夜中だと言うのに女性がいた。エレベーターの前でしゃがみ込んで、よく見ると小刻みに震えていて、泣いているのだとすぐに分かった。
 ドアの開く音と俺の気配で顔を上げた彼女は、隣の部屋に住んでいる女性だった。確か俺の半年後ぐらいにこのマンションに引っ越してきたと記憶している。
 会話らしい会話をしたのは彼女が引越しの挨拶に来てくれた時だけで、その後は今日まで挨拶程度の付き合いだった。年は恐らく俺と変わらない。俺の事を知っているのか知らないのかは分からないが、一度も芸能人だということに触れられたことは無かった。
 旦那なのか彼氏なのかは分からないが、とにかく男がいるのは知っている。可愛いというよりは綺麗な女性で、会えばいつも笑顔で挨拶をしてくれる。印象はかなり良かった。
 そんな笑顔しか見たことのない彼女の今の表情と言えば、目はじんわりと赤く染まっていて長いまつ毛は涙で濡れていた。えらく綺麗に泣くんだな、というのが率直な感想だった。どうしたんだろうとか、この状況に対する感想よりも先にそんな感想が出てしまうくらいに彼女は美しかった。
「……すみません」
 俺の存在に気付いた彼女は、そう言いながら凄く気まずそうな顔をして立ち上がるとタイミング良く俺が出て来たエレベーターの隣のドアが開いた。下の階に行くことを指していたのできっと彼女が呼んだものだろう。
 俺の横を通り過ぎようとした彼女からは香水の香りと少しアルコールの匂いがした。手にはバッグもスマホも財布も持っていない。服装もワンピースで、パッと見た感じポケットも見当たらなかったのでそこに入れているという事も無さそうだ。
 真夜中に泣いている女、酒が入っている、手ぶら、嫌な予感しかしない。
「ちょっと待って」
 彼女がエレベーターに足を踏み入れる直前に腕を掴み、引き留めてしまった。驚いた表情で俺を見ているが俺だって驚いている。自殺でもするつもりだったら後味が悪いと思わず引き留めたものの、どうすんだよ。これ。
「大丈夫ですか?どっか行こうとしてたんですか?」
「あの部屋にいるのは辛すぎて」
「行く当てはあるんですか?」
「……」
 無いのかよ。なぜ部屋にいるのが辛いのかは分からないが、辛いからといってこんな夜中に女性が手ぶらで街を歩くのは危なすぎる。
「頼れる友達とか親とかいないんですか?」
「親は海外だし……」
 彼女の弱々しい声に、頼れる相手がいないからこうなってんだよなあ、と心の中でため息を吐いた。
「あ、てゆーか旦那さんは?彼氏?一緒に住んでますよね」
 そう言った瞬間彼女の瞳から大粒の涙が再び流れ出した。盛大に地雷を踏んでしまったらしく、こっちまで泣きそうになった。
 どうしてこんな疲れ果てた仕事終わりにこんな面倒くさい事に首を突っ込んでしまったののだろうか。今の記憶を持ったまま数分前に戻れたのなら彼女を引き留めることなく部屋に戻れていただろうか、なんて非現実的な事を考え出してしまう。
 でもきっと、俺は彼女を引き留めていただろう。つまり男は美人に弱いのだ。
「俺の部屋来ますか?同じ間取りだろうけど住んでる人間が違うと部屋も全然違うと思うし」
 心底驚いた表情で俺を見上げる彼女は少し考えてから静かに頷いた。

「すみません。いまミネラルウォーターしかなくて」
「ありがとうございます」
 ソファに座った彼女にグラスを渡すと、控えめに口を付けた。さっきよりは落ち着いたようだったので少し離れた場所に座り話を聞く事にした。
「単刀直入に聞きますけど、旦那さんと喧嘩でもしたんですか?あ、言いたくなかったら無理しなくていいんですけど」
「彼氏です。正確にはもう元カレですね。振られたんです、今日突然。奥さんに子供が出来たからって」
「それって……、」
 それってつまり不倫じゃないか。あまりにヘビーな話に言葉が出なくなった。
「不倫ですよね。でも知らなかったんです。言い訳になっちゃうけど本当に知らなくて、結婚の約束までしてたんですよね。来月ふたりだけで海外で挙げようって式場まで予約してたんです。専業主婦になって欲しいっていう彼の要望もあって私先週会社も辞めちゃってて。あの部屋も今月中に出て行ってくれって」
「……」
 彼女の口から次々に出てくる言葉は一々重く、いよいよ本格的に言葉が出なくなった。確か、あの元カレはどこかの会社の社長をしていると言っていた。車も持ち物も高級品が多かったから家庭とは別に女を養えるだけの甲斐性はあったのだろう。
「もうほんと、意味が分からなくて。2年間ずっと騙されてたんだなって。奥さんに子供が出来てなかったらどうにかこうにか来月までに離婚して何事も無かった様に私と結婚してたんでしょうね。ほんと最低……。知らないうちに不倫に加担してた自分に対する自己嫌悪も凄いし」
 言い終わると彼女はまた涙を流した。本当に綺麗に泣く女だなと思う。近くにあったティッシュの箱を渡すと、少し頭を下げてから数枚引き抜いた。柔らかいティッシュが彼女の涙を吸いとる。
「……でも、やっぱりまだ好き」
 絞り出すように小さく呟いた声は掠れていて、これが全てでそして本音なのだろうなと思った。それなりに恋愛はしてきたがここまでの経験はさすがに無い。彼女の心の痛みは俺には計り知れないが、きっととてつもない痛さなのだろう。
「部屋、ひとつ空いてるんで良かったらそこ使ってください。布団敷いて来るんでその間シャワーでも浴びてきますか?俺ので良ければ着替えも貸しますし。あーでも下着は流石にねぇな。新品のボクサーしか無いんですけどそれでもいいですか?」
 女物のパンツなんか常備してねーもんなぁ。家中を探せばもしかすると元カノのパンツが出てくるかも知れないが誰が使ったパンツなんか使いたくないだろうし、俺も出来れば探したくない。なんて考えていると、ふ、という笑い声が聞こえた。彼女の方を向くとこの日初めての泣き顔以外の表情を見た。きっと少しテンパった俺を見て力が抜けたのだろう。
「貸してください、ボクサー。優しくしていただいて本当にありがとうございます」
 深々と頭を下げる彼女に、気にしないでくださいと俺もつられて頭を下げてしまった。なんだこれ。

 次の日の朝、リビングに向かうと「昨日はご迷惑をかけてすみませんでした。服は洗って返します。本当にありがとうございました。テーブルの上に鍵があったのでお借りしてポストに入れておきます」というメモが置いてあった。
 昨日は嵐のような1日だった。起きて最初にあまりの濃さに夢だったのか?と思ってしまう程だったが、部屋に残ったわずかな彼女の残り香とこのメモが夢じゃないことを物語っていた。






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