なまえの様子がおかしいことに気づいた一人目は、担任である相澤だった。やけに背中を丸めて廊下を歩くなまえを呼び止めるために、後ろから彼女の名を呼んだだけ。それだけだというのに大げさに体を震わせて怯えたように振り返るものだから、相澤は固まってしまった。
「あ、せっ先生……か、よかった」
か細い声ではあったが、安堵するなまえに小首を傾げる。よかった……とは。まるで知らない人間から声をかけられると思ったかのようで眉をひそめる。
「何かあったのか」
「え?」
疑問ではない問いかけになまえは目を見開いた後で俯くだけだ。しばらくして笑顔で顔を上げたなまえに、相談に乗るつもりであった相澤は面食らう。
「なんでもないです! ちょっと疲れてて、ぼーっとしてたところに先生に声をかけられてびっくりしちゃいました」
「おい――」
「そろそろ授業ですよね。失礼します」
ぺこりと頭を下げ去っていこうとするなまえの腕を掴むことなど簡単だ。しかし、今のは明らかな拒絶だった。聞くな、放っておけ。どうやら自分では相談相手にはなれないらしい。
「……仕方ない」
頭をがしがしと乱した相澤は小さく息を吐く。学友の出番らしい。
「なまえちゃん。最近元気がないわね」
蛙吹の優しい声に困ったような表情を浮かべたなまえは、彼女の隣で頷いている八百万に視線を向けた。
「私たち、なまえさんには憂うより笑っていてほしいですわ」
「ええ。頼りないかもしれないけど、相談くらいには乗れると思うの」
「た、頼りないなんてそんな……! それに私、元気がないとか、全然……」
「なまえちゃん」
苦笑して誤魔化そうとしたが、蛙吹に背中を軽くとんとんと叩かれてはもうだめだった。下唇を噛み深呼吸を繰り返したなまえは、自分のリュックの中身からとあるものを取り出した。
「? これは……」
「数週間前くらいから、直接ポストに……」
「手紙ね。しかも随分悪質な内容だわ」
なまえが出した手紙の束を受け取り、一枚ずつ眺めていく。好きだ、から始まり、かわいいやお疲れ様等の短いもの。中にはポエムのようなものから殴り書きで愛をしたためたものまで様々だ。この手紙やポストに届けられている事実から察すると――。
「ストーカーね」
「です、わよね」
聞けばほぼ毎日のように届けられているという。そりゃあ疲弊もするはずだ。相澤に相談に乗ってやれと言われ聞いたはいいが、まさかこんな爆弾じみたことを話されるとは想像していなかった。
「お母さんには心配かけたくなくて言えてないの。でもいつ私より先に手紙に気づくか不安で……言ったほうがいいっていうのはわかってるし、ヒーロー目指してるくせにこんなことで怯えちゃいけないのも……わかってるんだけど」
「ヒーローを目指していたって、存ぜぬ方に迫られて怯えない女性なんていませんわ。なまえさんは少しも悪くありません」
「……ありがとう、八百万さん」
少し肩の力を抜いたなまえに安心しつつ、蛙吹は顎に指を当てながら考える。ちらりと寄越した視線の先には麗日や芦戸たち。
「大丈夫よ。よく頑張ったわね、なまえちゃん」
にこりと微笑みかけた際、なまえの目尻に浮かんだ透明な何かには気づかないふりをした。
「おら。帰んぞ」
「ええ!?」
不機嫌そうな爆豪にただただ驚くなまえはここ最近で一番大きな声を出してしまった。彼から一緒に帰ろうだなんて最後に誘われたのはいつだったっけ。そもそもあっただろうか。ぐるぐると頭を動かしていればいつの間にか手を取られていて、なまえは慌ててリュックを片方の肩にかけた。
「頼むな、爆豪」
「っせえ。言われるまでもねえよ」
切島が何かを爆豪に言っていた気がするが、なまえには聞こえなかった。皆がなまえにまたねと手を振ってくれる中で未だに思考を働かせていた。教室を出た瞬間離されたが、少しとはいえ手を繋いだのもしばらくぶりだ。なんだか昔に戻ったみたいでなまえはえへへとはにかむ。
「かっちゃんと一緒に帰れるなんて、うれしい」
「……そうかよ」
帰っている間爆豪がやけに周囲に視線を向けているのが気になったが、なぜか家の前までしっかりと送られてしまった。無意識にポストへ目をやってしまったのは仕方ないだろう。
「ありがとうかっちゃん! また明日ね」
「はよ家入れ」
「えええすごい不機嫌……いつもだけど」
今にもスキップしそうななまえが家に入り施錠の音を確認してから、爆豪はなんの躊躇いもなく踵を返した。
「そこにいんだよなぁ」
瞳孔の開いた瞳のままなまえの家から少し離れた電柱へと静かに足を進める。立ち止まった目と鼻の先には自分とそう年の変わらない制服を着た男だ。顔を青くさせ震えているが、彼の両手には一枚の封筒がある。確定だ。
「舐めた真似してくれんじゃねえか。なまえに用があンなら俺通せや」
「ひっ」
息を呑んだ男が覚束ない足取りで逃げ始める。さてどうしてやろうかと追おうとした爆豪は突然派手に転んだ男に目を丸くした。
「わりぃ。逃げようとしてたから、転ばせた」
足を引っ掛けて転ばせたらしい轟が申し訳なさそうに爆豪を見つめている。気になったから家まで来てみたらしい。見れば近くには麗日や上鳴たちもいて、あああいつは愛されてんだなと実感する。
「まあ、好きになる相手を間違えたんだよ。お前は」
地を這うような声は男に届いたのだろうか。無表情の彼らに見下ろされ、言葉などなくとも金輪際関わるなと伝えているのがわかったらしい。男は情けない声を上げながら走り去っていく。顔は覚えた。今後も何かしてくるようなら、相応の罰を与えよう。
――もうすぐで日が暮れようとしていた。
背筋を伸ばして廊下を歩くなまえの姿を見つけ、相澤は一泊置いてから彼女の名前を呼ぶ。ゆっくりと振り向いたなまえがにこりと微笑み「こんにちは先生」と元気に挨拶をしてくる。
「大丈夫か?」
「……? はい! ちゃんと予習復習してきましたっ!」
「そうじゃないが、まあ大丈夫ならいい」
ぺこりと頭を下げられあのときのように小さく息を吐く。しかし今回は蛙吹のような安堵の息だ。
「生徒同士で解決できたのならよかったな」
この後それとなく八百万や蛙吹に何があったのかを聞いたのだが、悪い虫を追い払っただけだと笑顔で言われ困惑した。何はともあれ、笑顔が取り戻せたのなら結果的によかったのだろう。相澤はそう思うことで自分を納得させた。
忘れられない醜さ
戻る