「緑谷少年」


ソファに腰かけているなまえは、むっとした表情で見下ろしてくる緑谷に彼の名を呼ぶことしかできなかった。怒っているのは一目瞭然でひとまず謝罪を繰り返すが許してくれる気配はない。


「……なまえさん」
「はい……」
「僕は怒っています」
「わかってます……」


ついには確認まで取られてしまったなまえは、冷や汗をダラダラ流しながら緑谷と視線を合わせる。怒らせてしまった原因が自分であるのは間違いないのだが、何に怒ったのかがいまいち理解できていなかった。


「なんであんなこと言うんですか」


蚊の鳴くような声だった。聞き逃してしまいそうになった言葉を拾ったなまえは自分の発言を思い出す。


「もしかして……私より好きな人ができたらそっちに行っていいよって言ったの、まずかった? ちょっとしたジョークのつもりだったんだけど……」
「あんな真剣な面持ちで言うジョークはジョークと言いません……」


怒った表情から一転はああと息を吐き出した緑谷は顔を覆いながらなまえの隣へと腰を下ろした。

他愛ない話の中での冗談だった。いや、冗談にしてほしかったと言ったほうが正しいだろう。緑谷に好きだと言われる度に自分は彼に同じくらいの愛を伝えられているかがいつも不安だった。緑谷よりうんと年上であるなまえは、正直付き合い始めた当初彼の好きは尊敬から来る勘違いであろうと決めつけていたのだ。今でこそ本当に自分を好いてくれているのだとわかってはいるが人の心は移ろいやすいのをなまえは知っている。今後緑谷が自分より若い女の子と結ばれても大丈夫なようになまえはあくまで師弟以上恋人未満のような関係を続けていた。付き合っているのに恋人未満、というのは笑えるが実際手も繋いだことがないのだ。あながち間違ってはいないだろう。


「僕にはなまえさん以外に好きな人を作るなんて、一生できません」


突然泣きそうな声色で呟いた緑谷になまえはぎょっとした。そんななまえをお構いなしに緑谷は言葉を続けていく。


「なまえさんはきっと僕のことまだ子どもとしか思ってないんでしょうけど……でも、好きなんです。なまえさんは素敵な人だから、いつか子どもの僕より同い年くらいの男性とお付き合いしちゃうんじゃないかなとか、僕なんかすぐ別れようって言われちゃうんだろうなとか色々考えちゃって……。待てよ、これはなまえさんにすごく失礼なんじゃ……勝手な憶測だけでなまえさんの気持ちを踏みにじるような真似は――」
「み、緑谷少年、ストップ! ね?」


ブツブツと長くなる前に緑谷の肩に手を置いて現実へ引き戻す。そして聞き捨てならない台詞を聞き取っていたのでなまえは慌てて訂正した。


「私、ちゃんと緑谷少年のこと一人の男の人として見てるよ……じゃなきゃ、お付き合いなんてしてない」
「……本当、ですか?」
「逆に私は緑谷少年にそういったことを考えてるよ。緑谷少年はまだ若いし、今は私みたいなおばさんが好きでもそのうち違う少女に恋をするだろうと思ってた」
「なまえさんはおばさんじゃないです……」


肩の力を抜いた緑谷がグッと口元を引き締めているのが見えた。僕たちって似てますね、と苦笑してきた緑谷に、師弟っぽいねとお茶目に返した。


「私は予防線を張っているんだよ。この先君に他に好きな少女ができても、ギクシャクせずに師弟関係が継続できるように……なんて」
「……そう、なんですね」


酷いことを言っている自覚はあるのに、緑谷はなぜか目を細めてなまえを見上げている。


「緑谷少年?」
「なまえさんが僕のことちゃんと男として好きって言ってくれたから、嬉しくて。……大丈夫ですよ、なまえさん」


指先同士が軽く触れあってなまえは思わず仰け反った。珍しく積極的な緑谷が隙間を埋めるようにソファに膝をつき、なまえをまるで壊れ物のように優しく抱きしめてくる。こんなどきどきする密着、知らない。


「何度でも言いますが、なまえさん以外に好きな女性は作りません。この先もずっと」
「え、あ……」
「年齢差を気にする必要なんてなかったんだ……僕はなまえさんが好き。なまえさんも僕が好き。何も心配することなんてなかったんですね」


緑谷が自分に言い聞かせるように呟く際耳にかかる息に、頬が赤みを帯びた。好きです、と紡がれる言葉にこくりと首を縦に動かすことしかできない。師弟以上から恋人以上になったことに気づいて、なまえは小さく唸る。そして恥ずかしさと嬉しさからうるさい鼓動をどうにかするべく深呼吸を繰り返すのだった。

きっと、緑谷はなまえを一生好きでいてくれる。



いつか同化するために



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