「きゃ!」


ノミの心臓を持つ男、天喰環が通形なまえに恋に落ちた瞬間はその驚いた声が鼓膜を震わせたときであった。最高の親友であり尊敬しているなまえを一度も異性として認識したことがなかった天喰は顔を真っ赤にして口元に手を当てる。仲良くなってからというもの、彼らの間に性別の壁など存在していなかった。そもそもなまえに恋心を持つという発想さえなかったのだ。だから平気で手だって繋いでいたし、添い寝もしていた。なまえが喜ぶのなら、安心するのならとなんでもしてきた天喰は自分の感情に今度は顔を青くする。ああ、自分はなまえに対して失礼な想いを抱いてしまっていると。


「あー環かぁ。びっくりした」
「なまえちゃんびくって肩震えてたね。面白かったー」
「波動さん酷いや。考え事してたから気づかなかったよね。ヒーローとして失格!」
「じゃあこれから気をつければいいんじゃない?」
「そっか!」
「そうだよー」


ねじれと話していたなまえを呼ぼうと肩を軽く叩いただけだった。まさか、驚いた声で恋に落ちるだなんて誰が予想しようか。何の用件だったかもすっかり忘れてしまった。談笑を楽しむなまえの姿に恋慕と罪悪感から心臓がうるさく音を立てる。天喰はそれを隠すかのように胸辺りで拳を握り俯いた。


「……だめだ」


天喰は、なまえを神格化していた。それ故の罪悪感。もちろん天喰は先ほども言った通り無意識であったし、きちんと彼女が自分と同じ人間なのだとわかっているしそのように接している。だから天喰は本能でだめだと思ったのだ。自分なんかが好きになっていい人じゃないと。好きになるだなんて、まして好きになってもらおうなどおこがましい。

しかし一度好きだと認めてしまったからか、諦められるわけもなかった。むしろ日が経つにつれてどんどん好きになっているように感じる。自覚してからなまえの行動一つひとつに今までは考えたこともなかった女性らしさを見つけてしまい胸が高鳴るし、最近では目を合わせるだけで顔が熱くなりろくに会話もできない。天喰は教室の隅でまずいと頭を抱えながら唸った。心配するクラスメイトの視線にも気づかず項垂れていると「ねえねえ」と聞き慣れた声が耳に届く。天喰が顔を上げるとにこりと人懐こい笑みを浮かべるねじれがこちらを覗き込んでいた。よく見ればねじれと手を繋いだなまえの姿もあり、天喰は変な声が出そうになるのを必死に耐える。なぜ手を繋いでいるのだろう……! 思わず繋がった手を凝視していると、気づいたねじれは天喰にしか聞こえないよう「嫉妬しないでね」と囁きながらパッと手を離した。


「して、っしてない」
「環?」
「あ、いや……なんでもない」
「ほらなまえちゃん」


つんつんと突かれているなまえの顔を見上げれば困った様子で苦笑していた。一緒にいる時間が長いだけあって表情の中に悲しみも見つけてしまい天喰は慌ててなまえとの距離を詰める。


「なまえ、大丈夫……っ? 何かあった?」
「う、うーん」
「もうなまえちゃん、ちゃんと言わなきゃダメだよ。あのね天喰くん。なまえちゃん、最近天喰くんから避けられてるような気がして辛いんだって。天喰くんに嫌なことしちゃったんじゃないかって気にしてたよ」
「え」


久しぶりになまえの目を見つめればこくりと頷かれて天喰は数秒呼吸が止まった。自分が原因で、なまえを傷つけた。その事実に吐きそうになり一気に血の気が引いた。やはりこの恋は早く諦めてしまわなければいけない。諦めなければまたなまえを傷つけてしまう。ごめん、なまえは何もしてない、ごめん。うわ言にも似た言葉を紡ぐが、結局始業のチャイムによって会話は一度中断された。また放課後ね、と告げたなまえの表情は未だ晴れていない。諦めろ、諦めれば前みたいに戻れる。そうしなければなまえの笑顔が戻らないと天喰はひたすら心の中で唱え続けた。







結論から言えば諦めることはできなかった。そもそも、天喰がすぐに諦められる性格をしていたなら今頃はヒーローになる夢すら捨てていた。放課後になり帰る支度をしている最中も、なまえに帰ろうと声をかけられたときも天喰は言葉を発しなかった。ただどうすればなまえがまたいつものような笑顔を向けてくれるか、そのことを考えるのに必死だったのだ。


「ねえ環。やっぱり私、環に何かしちゃったよね」


しかし当たり前ではあるが天喰の気持ちまでは察せないなまえは心配そうに天喰を見上げた。ぎょっとして頭を振るがなまえの中では彼女が何かしてしまったことは決定事項らしく「でも……」と明らかに落ち込んでいる。


「違う、俺が――」
「環が……?」


――俺が、なまえを好きになってしまったから。

好きになって悪いことなどないというのに、天喰は自分の気持ちを押し殺そうとしていた。その気持ち悪さが喉辺りを這っているようで吐いてしまいそうだ。呻きそうになりながら喉元に手を当てていると、ふわりと頭に何かが触れた。天喰は目を見開いて固まりながらも現状を把握する。なまえが背伸びをして自分の頭を撫でていたのだ。言葉こそなかったが「大丈夫だよ」と言われているかのような優しさに天喰は泣きそうになる。


「ごめん……好きになって」


天喰の中でそれは懺悔に等しかった。好きという言葉を口にした途端なまえの手はぴたりと止まる。逆に天喰は止まらなくなり饒舌になってしまい、勢いとはすごいなとどこか冷静な部分で評価してしまった。


「……前みたいな関係に戻れるように、頑張る。好きになって、本当に――」


そこで天喰はなまえの表情に変化があったことにようやく気づいた。謝罪を続けようとした口を閉ざして瞬きを繰り返す。眼前には耳までほんのり赤く染まり、薄く開いた唇から戸惑った声が漏れているなまえがいた。あれ、と天喰はなまえの赤みが自分にも移ったことを自覚しながら彼女の腕を力を入れすぎないようにして握った。


「ひゃっ」


その驚いた声にまたどきりとしてなまえの名前を呼ぶ。困惑や嫌悪の表情を浮かべられなかったことで天喰は少し許されたように思えた。

ずっとなまえを神だと思っていた。どこが、と問われると答えるのは難しいが自分を光の方へ導いてくれるなまえの存在は尊かったのだ。


「た、環……今は、あまり見ないでほしい」
「……見たいし、聞きたい」
「聞きたい……って」
「……返事」


もしかしたら都合のいい夢かもしれない。だがこんな幸せな夢ならいくらでも見ていたいと思う。自分と同じように顔を赤らめる姿に天喰はなまえと同じ場所に立てたような、そんなことを思ったのだ。


「……環」


天喰の中で神の存在が消えていく。諦めるのを諦めて、どうやってなまえを笑顔にするかを考えた。そのためにまずは返事を聞こう。天喰ははにかんだ顔を隠さず「なに?」となまえの声に返した。


神話に触るみたいに



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