ただいま、と口を開きかけて緑谷は慌てて噤む。見たところリビングから明かりは一切漏れていなかった。時刻は日付が変わった直後だ、寝ているのなら起こすのは申し訳ない。玄関から寝室へ移動すると、ベッドですやすやと気持ちよさそうに布団を被る一人の少女がいた。振動と音を最小限に抑えてベッドに腰かけ、少女――なまえの頬に触れる。ん、と身じろぎはしたものの起きる気配はない。呟いたただいまという言葉はスプリングの音でかき消された。

プロヒーロとなりなまえと交際、同棲して早数年が過ぎた。ありがたいことにヒーローとしての知名度は全国的となっていて、メディアへの出演も増えている。ヒーローとして、ピンチのときも笑って多くの人たちを救ってきた。一つでも救える命があるのなら緑谷はこれからも手を差し伸べるつもりだ。つまり何が言いたいのかといえば、最近なまえとの時間が取れていない。


「なまえちゃん……」


なまえの名前をこれほど弱々しく呼んだことなどないだろう。お互いに忙しすぎて会話という会話が全くないのだ。起きるのはなまえのほうが早く、帰ってくるのは緑谷のほうが遅い。しばらくなまえの寝顔しか拝めていない緑谷は小さくため息をついて眉をひそめた。寝顔ももちろん十分にかわいいが、やはりなまえの笑顔を見たいと思うのはわがままでもなんでもないはずだ。

ごろんと横になってなまえの手を握り締める。なまえの呼吸音が心地よくこのまま眠ってしまいたくなった。ああでもお風呂に入って、それからご飯も食べなければ。きっとなまえは自分のために作り置きをしてくれているはずだ。近づいたことで香るなまえの匂いに緑谷は目を細めた。


「……なまえちゃん、好きだよ」


だがなまえはどうだろう。もしかしたら話をしない日々が続いたせいで愛想を尽かしているかもしれない。もちろんそんなことは天地がひっくり返ってもあり得ないことは緑谷自身よく知っている。愛想を尽かされていたらご飯の用意どころかこうして同棲なんてしていない。愛されていることはわかっているのだが、そんないらない心配をしてしまうほどには緑谷はなまえに飢えていた。声が聞きたい、もっと触れたい。増えていくばかりの欲は緑谷に限界を与えていた。


「ねえなまえちゃん……僕たちさ、そろそろ結婚しよう」


言うつもりはなかったがずっと考えていたことをつい口にしてしまう。自室の引き出しには指輪の準備もばっちりだ。タイミングを見計らって言おうとはしているが果たして渡せるのはいつになるのやら。そこで緑谷はなまえの呼吸音が不規則になっていることに気づいた。いつも寝ているときの呼吸じゃないことを不思議に思いなまえの手元にやっていた目線を顔に向ければ、なまえは目を大きく見開き口をパクパクと動かしている。きっと顔も赤くなっていることだろう……いや、違う。そんな冷静に分析をしている場合じゃない。


「た、ただいま」
「おかっおか、えり、デクくん……」
「……聞いた?」
「ば、ばっちりだぜ」
「………」


なまえの手を離した緑谷は勢いよく起き上がりベッドの上に正座した。なまえものろのろと起き上がり、恥ずかしそうに髪を手櫛で整えながら俯く。これは夢だと言えばよかった、口を滑らせなければよかった、など思ったところでもう遅い。後悔先に立たずとは正にこのことである。


「忘れたほうがいい?」
「……忘れてくれるの?」
「うーん……ちょっと難しいかも。記憶喪失にでもならない限り」
「なまえちゃんから僕の記憶がなくなるのは嫌だなあ……」
「私も嫌だよデクくん……」


顔を見合わせてお互いにふふっと笑い出す。ひとしきり笑い終えた後緑谷はもう一度なまえの手をぎゅうと握った。なまえの肩が跳ねたが嫌がったわけではなく驚いただけだろう。久しぶりに起きているなまえと顔を合わせられた。その嬉しさで頬が緩むのを感じながら言葉を紡いだ。


「本当はベッドの上じゃなくて、せめてリビングでしようと思ってたんだよ。寝てるかと思って」
「寝てたよ。デクくんが隣に寝転がってきた辺りから起きちゃったの」


好きだなんて言うから、照れちゃって目開けるタイミング逃しちゃったよとなまえがはにかむ。暗闇に目が慣れた緑谷はなまえのそんな表情を眺めながら両手でなまえの手を包み込んだ。


「今度時間を見つけて改めてちゃんと言うよ……だから、プロポーズの予約……してもいいですか」
「……いいですよ」


ふわりと微笑むなまえの顔は幸せそうだ。きっと自分も同じような顔をしているのだろうと緑谷は内心苦笑する。プロポーズの予約なんて意味がわからないし、かっこ悪い。もう既にプロポーズしてしまったようなものなのに。


「好きだよなまえちゃん。これからはなるべく早く帰るようにする」
「お仕事なんだから、私早く帰って来てなんて言わないよ。休み同じ日に取ろうよデクくん。そのときに、続き聞かせて。……ね?」


好きが溢れて抱きしめてしまった緑谷の背中をなまえが優しく撫でた。私も好きだよと殺し文句まで耳元で囁かれてしまう。休みの予定を頭で立てながら緑谷は静かに幸せを噛みしめた。



ひとりとひとりの息遣い



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