出口までの道なんて覚えていなかった。ここの地下はいくつも道があってただ走っただけじゃ辿りつけないようになっている。息を切らしたなまえは何十回目かの角を曲がって、何かにぶつかってしまった。勢いよくぶつかったことで尻もちをついたなまえに差し出されるのは一本の手だ。おそるおそる見上げて青ざめたなまえの眼前には無表情で見下ろす、ペストマスクをつけた一人の青年がいた。


「だめじゃないかなまえ」
「ひっ」


表情とは裏腹のとても優しい声色に思わず喉から引きつった声が漏れる。ふるふると首を左右に振ったなまえの腕を無理やり掴んで起き上がらせた青年――治崎はわざとらしくため息をついて彼女を抱き上げた。


「や、やだ、やめてっ」
「駄々をこねるのは壊理だけで十分だ。さっさと部屋に戻って昨日の続きをしようか、なまえ」
「あ、あ」


震えるなまえのことなどお構いなしに足を進めて十分ほど経ったころだろうか。一つの部屋のドアを開け放ち佇んでいた玄野が小さく頭を下げて治崎たちを迎えた。


「なまえの監視役は一体何をしてた」
「すいやせん。少し目を離していたようで」
「別の奴に変えろ。あいつは殺しておく。掃除は任せた」
「へい」


殺しておく、というおぞましい言葉になまえの体が大きく跳ねる。いとも簡単に人の命を奪ってしまおうとする治崎に微塵の躊躇も見えない。パタリとドアが閉まりなまえをベッドに寝かせた治崎はペストマスクを片手で外した。そしてなまえに覆いかぶさると静かに顔を近づけて何度も角度を変え唇を押しつける。乱暴な行為に彼が怒っていることなど一目瞭然であった。


「ん、っ……ふ、ぁ、ちさ、きさん」
「口を閉じるな。しづらい」
「あ、でも」
「それから治崎じゃない。呼ぶなら二通りだと言っただろう」


唇を噛みしめて肩で息をするなまえを見つめる治崎の目にはいつの間にか情欲が浮かんでいる。なんとか手を動かして治崎の胸に添えたなまえが小さく「廻さん……」と呟いた。治崎を呼ぶならばオーバーホール、もしくは廻と呼ぶこと。ここに来たときに彼に言われたことだった。オーバーホールと名乗り名前を捨てた治崎が特別に名前呼びを許すのはなまえだからだ。

治崎はなまえが好きで好きで堪らなかった。それこそこんな地下に閉じ込めておくほどには愛が溢れている。人に触れれば蕁麻疹が出るほどの潔癖症の治崎がなまえにだけは触れることができる、と言えば治崎のなまえへの気持ちは十分伝わるはずだ。だがなまえは気持ちに応えてくれなかった。隙あらばこの地下から、治崎から逃げようとする。その事実が治崎を苛立たせた。


「廻、さん……ご、ごめんなさい……。謝るから、あの人のこと許してあげて……。私が全部悪いの、あの人は悪くないの……っ」


治崎はせっかくなまえの瞳に自分だけが映っていることに多幸感を感じていたというのに、監視役である男を庇う様子にまた青筋が立つのがわかった。


「ここから出たらあの男が殺されることくらい想像できたくせになぜ逃げた。無駄な努力をする暇があるなら俺を受け入れる準備でもしたらどうだ」
「んん、う、ぁ」


なまえを見る男は自分だけでいい。口付けをするのも柔い肌をこの手で触れるのも全部。


「いつかお前も俺を愛してくれ、なまえ」


自分だけを見て、愛を口にしてほしい。そんな願いさえ叶えてくれそうにないなまえに触れながら治崎は目を細める。


「かい、さん」


どんなに体を密着させたところで満たされない想いに胸が苦しくなった。もしなまえが心からの笑顔を向けてくれるときが来たら、そのときはこんな狭い地下の一室じゃなくて閉じ込める場所を自分の部屋に変えよう。涙を浮かべるなまえの目尻へ唇をくっつけながらそんなことを思った。



鼓膜さえ勝手に溶けようとする



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