*痴漢表現あり



その日は一本早い電車に乗れそうな時間に家を出た。だがギリギリになってしまったなまえはドアが閉まりますというアナウンスに慌てて車両に体を滑り込ませる。目の前でしまったドアに間に合ったとほっと息を吐いた。リュックを前で握り締めて電車に揺られながらぼーっと外を眺める。満員電車の中携帯でヒーローニュースの確認でもしようかという考えが至ったところで、なまえは足付近に違和感を感じた。


?」


満員電車だ。鞄か何かが当たることなど多くある。なまえは大して気にすることなく鞄から携帯を出そうとしてすぐに固まった。あれ、これは勘違いじゃないやつかもしれない。誰かの手が故意になまえの太ももを撫でていた。


「っ」


ぞわっと鳥肌が立ちなまえは初めてのことで完全に思考が止まった。今自分はいわゆる痴漢の被害にあっている。知らない者に普段自分でも触らない場所を撫でられるのは不快でしかないが恐怖で声が出ない。満員電車のためどこかに逃げることもできないし、振り返って誰が触っているのか確認するのも正直怖かった。体が強張り手の感触が伝わってくる。麗日のようにタイツを履いていればと後悔したところで状況が変わるわけでもない。なまえは顔を真っ青にして俯き、どうしようと目が潤む。リュックをぎゅうと握り締めながら、こんなことなら早起きしなければよかったと段々上がってくる手に震えたときだった。勢いよく離された手と共に聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。


「次の駅で降りろ」


地を這うような声は、助けてくれた恋人である爆豪が怒っていると理解するのに十分であった。周囲のざわつく声が遠く感じて、なまえは息を吐く。助けて、くれた。

男の首根っこを掴んだまま爆豪は反対の手でなまえの手を優しく握ってくれた。止まった駅で降りて、歩きながらリュックを手を繋いでいないほうの肩にかける。爆豪は無言のまま近くにいた駅員に男を突き出した。痴漢だと聞いた駅員は慌てて事務室へと連れて行ってくれる。駅員に男を任せた爆豪は事務室に向かう途中ずっとなまえの背中に触れていてくれた。事務室で警察官を待っている間もずっと。

女性の警察官に事情聴取をされたあと「被害届はどうする?」と聞かれたなまえは静かに首を横に振った。反省しているようだと別の警察官から聞いたし、その男が怒鳴られていたのは部屋が離れていても耳にした。爆豪の冷たい目と怒号で参ったのだろう。さすがに同情はしないが被害届はいいと思ったので、はっきりと出しませんと口にした。その間爆豪はずっと待っていてくれたようで、なまえが女性の警察官と歩いてくるのを見かけると近づいてくる。


もういいんか」
「あ、うん。学校のほうには連絡いれてくれたみたい。お母さんが迎えに来てくれてるみたいだから、今日はお休みするねあ、あの、かっちゃん」


爆豪は何も言わずに再度なまえの手を握ってくれた。警察官は終始目を細めて見守ってくれている。迎えに来た母親に泣かれながらなまえは家へと帰った。なまえの希望で、爆豪と共に。

母親はなまえを抱きしめると、今日はもうゆっくりしていなさいと無理やり部屋に文字通り押し込んだ。爆豪に「なまえのそばにいてあげて」と告げると母親は部屋を出ていく。母親に爆豪との関係を言ったことはなかったが、これはバレていそうだなとなまえは思った。


「なまえ」


ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、爆豪に優しい手つきで髪を撫でられた。それに驚いて目を見開くと爆豪はなまえの肩に頭を乗せる。


「助けんの遅れた。怖かったろ」


同じ車両に乗っていたのに止めるのが遅れたと自分を責めているらしい爆豪になまえは背中を軽く叩く。なまえは爆豪を微塵も責めてなんかいない。


「あのね、触られたときは確かに怖かったんだけどね」


かっちゃんが現れてすぐ恐怖がなくなったんだ。そう言いながらなまえが笑みを零すと爆豪はやっと安心したような顔を見せてくれた。ずっと思いつめた顔をしていたからなまえも安堵する。


「やっぱりかっちゃんはかっこいいな。強がりとかじゃなくて、本当に怖くなくなったの」
「そうかよ」


額、目元、頬と普段は滅多にしない場所に口づけを落とされてなまえは困惑しつつ顔を赤らめる。いきなりどうしたんだろうと思っているとにやりと笑った爆豪は楽しそうに口を開けた。


「怖くねえなら俺のことだけ考えてろ、なまえ」


最後に唇同士をくっつけられてなまえの体はベッドに沈んだ。それ以上爆豪がなまえに何かをするわけでもなく、ただ抱きしめてくれた。あのとき震えていた恐怖は嘘のように思い出せない。爆豪がいてくれるなら今後も恐怖を思い出すことはないのだと思う。黙って隣にいてくれる爆豪のことだけを考えながらなまえは目を閉じた。


剥がれ落ちた怜悧を撫でる



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