ベッドの上でなまえは窓越しに景色を眺めていた。雲は少しずつ流れていき、木々はそよそよ吹く風に揺れる。この景色は目を閉じれば消えてなくなり、瞼の裏には別の光景が鮮明に映った。


「なまえ、ちょっと出るね。先生とお話してくるから」
「……うん。行ってらっしゃい」
「……すぐ、戻ってくるね」


声をかけられて母の存在を今更ながら思い出した。抑揚のない声で見送れば母は表情を暗くして病室を後にした。そう、ここは病室だ。そしてなまえを隔離する部屋でもあった。

数週間前、ヒーローはなまえを敵連合から取り戻すことに成功した。敵連合の不意をついた奇襲に為す術もなく奪い返されたなまえ。それからというもののずっとこの病室で過ごしている。尋ねて来る者は母だけでなく、警察だったりプロヒーローだったりと様々だ。あのオールマイトも顔を出してくれるが、なまえの心はもう敵連合に染まり切っていた。


「……弔くん……助けて……」


何度も脱出を試みたが全て失敗してしまった。一度逃げるために窓から飛び降りようとしたためか、部屋には監視用のカメラまでついてしまっている。なんとか情報を吐かせようとしているらしく、皆口を揃えて「君は騙されていたんだよ」とまるで全てが敵連合のせいだという口振りで微笑みかけてくる。なまえは騙されてなんかいない……。死柄木が言っていたのだ。悪いのはこのヒーロー社会だと。なまえは何も悪くないのだと。誰もわかってくれなくていい……死柄木さえいてくれたら……死柄木がわかってくれればそれでいいのに。

なまえと久しぶりに再会したとき、もうどこにも行かないでと母は大粒の涙を零しながら抱きしめてくれた。しかし、驚くことに突然いなくなって申し訳ないという気持ちが微塵も湧いてこなかった。そのときなまえは確信する。ああ、もう自分は『戻れない』のだと。ヒーロー側へ戻ってきたところでなまえが敵なことに変わりはないのだ。


「……あのとき、弔くんから離れなければよかったな」


ヒーローが攻めてきたとき死柄木たちの邪魔になってはいけないと後ろへ下がったのがいけなかった。あれがなければ後ろから捕まることもなかったというのに。大丈夫、死柄木たちはいつかきっと来てくれる。ベッドに体を沈ませようとするとノックの音が部屋に響いた。なまえはまた警察かヒーローだろうと思ったが、返事をしないわけにもいかないためギリギリ外に聞こえるほどの音量ではいと返す。数秒後ゆっくりとスライド式のドアが開き、そこから現れた人物になまえは静かに瞬きを繰り返した。


「入っていいか」
「……うん」


左右非対称の髪色、目元の火傷の痕。見覚えのある少年、轟がドアを閉めなまえの近くに置かれた椅子に腰かけた。

この病室に訪ねてくる者たちの中に、不思議なことに雄英の生徒も含まれていた。彼らと会ったのは雄英を襲撃したあのときだけだというのに、爆豪だけではなく麗日や飯田たちがよく顔を出す。爆豪と同じくらいかそれ以上に訪ねてくるのが、現在傍で俯き座っている轟だ。なまえは轟がわからなかった。こうして近くにいたかと思えば、一言二言会話をすると満足そうに帰っていく。他の者はその日起こった出来事や自分のことについて語るというのに、轟は一切そんな話をしたことがない。聞くことと言えばなまえのことだ。好きな食べ物、好きな音楽、趣味や特技。これまでにたくさんのことを聞かれてきたが嫌な気分になるような質問は何一つとしてなかった。だからだろうか、轟が……他人がそばにいても心が穏やかなままなのは。


「なまえ果物好きか」
「うん」
「じゃあ明日は詰め合わせ持ってくる」
「いいのに」
「持ってきたい」
「……ありがとう」


皆腫れ物に触るような扱いをしてきた。だが轟は……轟だけは違ったのだ。まるで昔からの友達のように接してくる轟に、なまえは少しずつではあるが心を開き始めていた。もちろんなまえにそんな自覚は一切ない。なまえの気づかないところで着々と気持ちの変化が起き始めているのだ。なまえは果物の話以降黙ってしまった轟を見つめる。話しかけるつもりなんてなかったのに、無意識に口を開いていた。


「轟くんは……果物好きなの」


顔を上げたかと思えば信じられないものを見たときの目を向けてきた轟に、そういえば自分から話しかけたことなんてなかったことを思い出す。なまえが苦笑を浮かべればなぜか轟が目を細めた。


「な、なに……?」
「苦笑とはいえ、なまえが笑ったのも初めてだな」


口元に手を当てて今度はなまえが俯いた。死柄木たちと離れてしまってから笑顔をすっかり忘れていたらしい。言われて気づいたなまえは口を押さえたまま身を縮こまらせる。これじゃあ、死柄木がいなくても生きていけるみたいだ。轟の横顔を盗み見ると彼の口角は上がっていて訳がわからなくなる。どうして自分が笑っただけで彼は喜んでいるのだろう。


「俺はなまえが敵連合にいたこととか、爆豪とのこととか、詳しいこと知らねえから何も聞かないし言わない。これから先なまえが俺のそばで笑って生きてくれれば、それでいい」


なまえの笑った顔見ると落ちつくな。轟はそう言い切ると顔を少しだけ近づけてくる。なまえはしばらく瞬きも忘れ轟の言葉を何度も頭の中で繰り返していた。死柄木がいない中で、笑って過ごす? そんなの無理だ。だってなまえの居場所は既に敵連合でヒーローたちの元ではない。しかし轟のためだけに笑って生きてほしいと言われておかしくなった。


「私、轟くんのために生きるの?」


ああ、そうだ。死柄木たちと再会したときに笑顔を忘れていたらきっと皆は悲しむ。この笑顔は練習だと思おう。轟に限らずヒーロー側の人間たちとは死柄木が来たときまたお別れするんだから。無理やり納得させてしまえば自然と笑みがこぼれた。俺も果物好きだと微笑む轟の声を耳に入れながらなまえは左胸辺りの服を握りしめる。助けてほしいとすっかり受け身の姿勢になってしまっている時点で心境の変化があることになまえが理解するまであとどれくらいの時間がかかるだろうか。後日迎えにやって来る死柄木の手を取るか否かは、なまえ自身がヒーロー側へ引き返していることを自覚するかで決まる。それはきっと、轟にしかできないことだ。


「お肉も結構好きだよ」
「俺は蕎麦だな」
「蕎麦かあ……最後に食べたの何年前だろう」
「温かくねえのがいい。ここ出たら、一緒に食いに行くか」
「……出られたら、ね」
「出られたら。約束だ」


瞼の裏に映るのはいつも敵連合ばかりだった。だがこの日から轟の姿も映るようになり、その回数は日に日に増えていく。手を取るか否かなんて、聞くまでもないのかもしれなかった。



時おり呪いが透きとおる



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