なまえ、と涙を流しながら抱きしめる母親を感情のない目で見つめるのは、紛れもなくこの母親の娘だ。なまえの母――引子は先日警察から一本の電話を受けた。ヒーローがなまえを保護してくれたというのだ。嬉しい知らせに引子は文字通りその場で飛び跳ねた。約一年前のある日突如として姿を消した愛しい娘。敵連合を名乗る敵と行動を共にしていると話を聞いたときは何の冗談だと数日間寝込んだのも記憶に新しい。きっと騙されているに違いないと引子は毎日のように娘の無事を願うしかなかった。そんななまえが助かった、戻ってきてくれたなんて。連絡された病院へ走れば眠っているなまえと医師や警察たち。なまえの姿を見てようやく現実だと実感した引子は泣き崩れたという。

あれから数日後に目を覚ましたなまえは引子の顔を見て酷く怯えたような表情を見せた。


「な……なんで?」


まだ状況が整理できていないのかせわしなく視線を動かしては息を整えている。警察たちと共に敵連合から救い出したことをゆっくりと伝えてやればなまえは動きを止め、俯いた。


「……助けてくれなんて、言ってない」
「っなまえ!」


小さな体を抱きしめて引子は鼻をすする。なまえは優しいから、おそらく自分を助けたことで敵から引子たちが報復されるのではと怯えているのだろう。大丈夫、しばらくは警察もヒーローも近くにいるし、なまえはなんの心配もいらない。


「ごめんねなまえ、もう大丈夫だからね」


なまえが行方不明となる前、よく涙のあとが残っているのに気づいていたのに「大丈夫」と笑う姿に何も言えなかった。きちんと向き合ってあげられなかったことへの申し訳なさがじわじわと引子を侵食していく。ごめんね、と何度も何度も口にして勝手に許された気になりながら再会を喜んだ。

なまえの表情には一切気づかずに。







ため息をつきなまえは病室で寝転がりながら天井を見つめていた。正直ヒーローと敵連合が戦闘しているときなんとなく嫌な予感はあった。でもまさか本当に予感が当たるだなんて誰も思わないだろう。明日には退院するらしいこの状況もため息の原因だ。仮にも敵側にいた人間への対応じゃない。完全になまえは騙されていることになっているらしい。


「お母さん、泣いてたな」


ずっとヒーローや敵のことばかりで悩んで母のことをちっとも考えていなかった。なまえは母が好きだ。どんなに嫌なことがあっても母の笑顔を見ればまだまだ頑張れると思えた。母の温もりはいつだってなまえを包んでくれたし、きっとこのまま過ごしていればまた惜しみない愛情を注いでくれるはずだ。


「でもなぁ」


なまえが目覚めたとき引子に怯えたのは状況が整理できなかったからでも母たちの今後の安否を心配したからでもない。死柄木と一緒がいいと望んだのに、もう会えないのではと不安にかられたからである。だがなまえを幸せにしてくれるのは死柄木だと気づいてしまった今母の元に帰るわけにはいかなかった。決別したのだ、ヒーローと。敵連合以外の者たちと。


「困ってるね」


いつの間に入ってきていたのだろう。なまえにそう声をかけたのは警察らしい一人の男性だった。善良な市民を守るとは言い難い歪な笑みでなまえに近づいてくる男性に体を起こして布団を握りしめる。何の用ですか、と少しばかり震えてしまった声で尋ねれば男性はすっと膝を折った。


「弔くんが待ってますよ」


なまえの瞳で差し出された手のひらがまるで宝石のように輝いた。もう男性に警戒する必要も手を取らない理由もない。自分の手を重ねて男性――否、トガに微笑んだなまえは「ありがとう」と立ち上がる。見た目は警察のトガと手を繋いで病院内を駆け抜ける姿に、周りの人々は目を丸くしていた。おかげで捕まえられることなくすんなりと出口まで辿りつく。少ない血の量で病室まで来てくれたらしくトガの顔はすでにどろりと崩れかけていた。


「――なまえ!?」


あ、と振り向けば真っ青な顔で持ち物を床に落とした母がいる。大好きな母。親不孝でごめんなさい。でも自分の居場所は自分で決める。


「お母さん、今までありがとう! ばいばいっ」


無理をした笑みしか見せてこなかったなまえの屈託ない笑顔に引子の体の力が抜けた。


「脱出成功。ヒーローも警察も、無能もいいとこですね」
「ヒミコちゃんそんなこと言っちゃダメだよ……」
「はーい。あの車ですよ、ダッシュですなまえちゃん」


病院を抜ければちょうど良いタイミングでワゴン車が現れ急ブレーキで止まる。追いかけてくるヒーローもきっと皆なら大丈夫だ。車に乗り込んでまず見たのは運転席でハンドルを握るスピナーと助手席で舌打ちをする荼毘だった。


「だから揺らすなよ。酔うだろ」
「いいから後ろから追いかけてきてるヒーローは任せたからな!」
「うぜぇ」


完全に変身がとけたトガはなまえが帰ってきてくれたことにご機嫌なようだ。そんなトガを横目に、一度目を閉じたなまえはゆっくりと開きながら顔を上げる。


「遅くなった」
「……うん、弔くん」


おかえり、の代わりの言葉だけで幸せな気持ちになれた。帰るべき場所に戻ったなまえは揺れる車内で死柄木の服を掴む。


「ただいま」


やっぱり、敵連合(ここ)が自分の居場所だ。



瓶に沈めた陽が泡立つ



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