「もっと自分を大切にしなくちゃダメじゃないか!」
「はえ」


我妻なまえはこのときたしかに恋に落ちた。

左手で隊服のキュロットパンツをしわになるくらいに握りしめて、乱れる息と共にじわりと滲む涙が情けない。思わず呟いてしまった「しゅき」という言葉に「俺のほうがずっと前から好きだった!」と切れ気味に返されたことは生涯忘れないだろう。だから自分と話すときだけ異常なくらいの嬉しい音がしていたのかと納得して、なまえはもっと彼が好きになった。

そもそもなぜ彼、炭治郎に冒頭の台詞を言われたのかといえば少しだけ前に遡る。いつも通りだったはずだ。「今度こそ死んじゃう!」と文字通り泣き叫んでいたなまえの元に任務が入った。任務が入っても断るなんて選択肢があるはずもないなまえはめそめそ泣きながら鬼狩りへと向かう。その先で、右腕を怪我をした。痛かったけれど大した怪我ではなかったし、と安堵したなまえは「死ななくてよかったよぉ」とへにゃりと笑いかける。すると怪我の報告を聞いた炭治郎が整った眉を吊り上げてむっとした表情を見せたではないか。いつもなら怪我をしても「大丈夫か!?」と自分以上に心配してくれる姿を見せてくれるのに。困ってしまいおろおろするなまえの右腕を表情とは裏腹に優しく包み込んだ炭治郎は、自分を大切にしろと叱ってくる。正直こんなに心を動かされるとは思わなかった。師匠である慈悟郎にもよく言われていた言葉なはずなのだが。


「怪我をするなとは言わないが、死ななくてよかったなら大きな怪我をしてもいいというわけじゃないだろう」


鬼の攻撃を掠めただけの右腕は炭治郎にとって大怪我だったらしい。吊り上がっていた眉は段々と下がり始め、なまえの右腕をよしよしと触りながら唇を尖らせてくる。かわいいと口走りそうになったがなんとか耐えた。ところで、勢いのままお互いに告白したことになるのだがそろそろ突っ込んでもいいだろうか。


「あ、あの、炭治郎」
「うん?」
「わた、わたしのこと……本当に好き?」


答えの知っている質問を呟けば炭治郎は呆れもせずふっと口角を上げる。どきりと胸を高鳴らせていれば好きだよと微笑んでくれた。音を確かめる必要もない。この日から炭治郎とのお付き合いは始まるのだった。

――これがひと月ほど前の出来事である。


「ふざけんなよ! いい加減キスしたいんだよこちとら!!」
「あーもううるさい! 耳元で叫ばなくても聞こえてますよ! ご勝手にどうぞ!」
「つめたっ!? なんでアオイちゃんわたしにそう冷たいの!? わたしのことが好きだから?!」
「うるさくない貴女は好きですが何か!?」
「ぴゃ」


洗濯物を抱えるアオイに泣きついたなまえは頬を染めて俯いた。普段からそれくらい大人しければ、とため息をついてくるアオイは見なかったことにする。ひと月。そう、炭治郎と付き合ってからもうひと月も経つ。


「アオイちゃん、わたし……魅力ないのかな」


しかし炭治郎の態度は付き合う前と何ら変わりなかった。そのせいで進展という進展もなく恋人らしいことは何一つしていない。付き合ったらイチャイチャするのが普通だと思っていたなまえは今の状況が納得いかなかった。


「黙っていれば美人なんですから魅力ないことはないんじゃないですか?」
「えーん辛辣だよー」
「炭治郎さんに好きと言ってもらったんでしょう? それが答えだと思いますが」


ほら忙しいんだからあっち行ってください! と怒られたなまえは渋々アオイから離れることにする。誰かに話せたことで気持ちが楽になったなまえがお礼を伝えれば、アオイはぷいっとそっぽを向いた。微かに見えた耳が赤くなっていたのは見間違いではないだろう。蝶屋敷の戸につくのと炭治郎が笑顔で駆けてくるのはほぼ同時だった。今回蝶屋敷に用があったのは炭治郎で、なまえはただの付き添いだ。遅くなったと苦笑する炭治郎に大丈夫と伝えればほっとしたように胸を撫でおろしていた。


「ん?」
「え?」


そこで突然炭治郎が首を傾げてきたためになまえはぱちりと瞬きをする。自分を見つめてくる炭治郎にまさか顔に何かついているのかと触ってみるが特に変わったところはなさそうだ。なまえも同じく首を傾げたところで炭治郎はぼそりと呟いた。


「不満の匂いが薄くなってる」
「はあ?」


目を細めて睨めばわかりやすくまずい! と顔をしかめる炭治郎に詰め寄る。だらだら冷や汗を流しているところ悪いがここで引き下がるわけにはいかない。何か聞き出せるはずだとなまえの勘が訴えていた。


「不満の匂いがなに?」
「う……」


なまえの視線に耐え切れなくなった炭治郎は少しずつ白状し始める。簡単にまとめれば、いつになっても手を出さない炭治郎に不満を持つ自分を見て楽しんでいたらしい。とんだ腹黒男だ。


「じゃあ何? わたしが今日アオイちゃんに慰めてもらわなければ、またしばらく手を出してこない炭治郎に不貞腐れて過ごさなきゃならなかったってこと?」
「ああアオイさんに話を聞いてもらったんだ。おしゃべりできた?」
「うん久しぶりにアオイちゃんと話せて楽しかったし、幸せだっ――話を変えないでもらってもいいですかね!?」


心のこもっていない謝罪を聞き流しながらなまえは頬を膨らませて蝶屋敷を出ていく。早歩きで去ろうとするなまえの後ろを慌ててついてきた炭治郎に手を握られたが、なまえはこれっぽっちもどきりとなんてしていない。手汗の心配もしていないし、熱くなった頬も耳もきっと気のせいだ。


「許してくれなまえ。俺のことだけを考えてくれるのが嬉しくて調子に乗ってしまったんだ……」
「ふっ、ふーん? まあ。今回は不満を口にしなかったわたしも悪いし? 許すけどさぁ」
「なまえちょろいって言われたことないか?」


失敬な。心当たりありすぎて返事ができないわ。そんなことを思いながらなまえは恋人になってからはじめて握られた手に唇を噛みしめる。別に手を握ってもらえたから許したわけじゃない。油断すればニヤニヤしてしまうであろう頬を抑えるのに必死だった。


「それに……簡単に手なんか出せないさ」
「? なんで……」
「なんでって……大切に、したいから」


恋に落ちたときと同じ言葉になまえは蹲るしかなかった。大切、という言葉でこんなにどきどきするのは炭治郎にだけだ。好きな異性に自分を大切にされたりしろと言われたりして喜ばない女性がいるのだろうか。少なくともなまえを喜ばせるには十分だ。蹲っても手は離さないところがなまえらしい。


「炭治郎好きだよ……」
「うん? 俺のほうがもっと好きだ」
「そ、そういうとこー!」
「?」


なまえと目線を合わせるべくしゃがんでくれた炭治郎がにこにこと笑っている。かっこいいなと呆けていればふいに伸びてきた炭治郎の人差し指がなまえの唇にそっと触れた。戸惑うなまえをそのままに指を離した炭治郎は笑顔のまま自分の唇へと近づける。


「直接はまた今度」


先ほどまで自分の唇に触れさせていた指が炭治郎の唇に当たったのを見て雄叫びを上げそうになった。「うーんやらなきゃよかった、恥ずかしいな」と照れている炭治郎だが、恥ずかしいのはこっちだと殴ってやりたい。いや、多分殴れないけれども。


「炭治郎」
「なんだ?」
「……手繋いで行こ」
「ああ」


二人して立ち上がり手を繋いだままゆっくりと歩き始める。ただ繋がれていただけのはずが、自然とお互いに指を絡めいわゆる恋人繋ぎに変わった。顔を真っ赤にして歩く姿は道行く人の視線を集めるが今の二人に気にする余裕はない。炭治郎の背負う箱の中で眠る禰豆子のことを考えながら、なまえは顔の赤みをなくそうと小さく息を吐くのだった。


スロウ・ネクスト



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