「無一郎の無は無能の無」


母が風邪をこじらせ肺炎で死んだ。父もそんな母を治すべく嵐の中薬草を採りに外へ出て死んだ。残されたのは私と双子の弟である無一郎だけ。私は無一郎を守ろうと必死だった。生きることだけで精一杯で、無一郎にはひどいことをたくさん言った。余裕がなかったなんてただの言い訳だ。思えば私は毎日イライラしていたような気がする。思ったことはすぐに口にしていたし、思っていないことだって無一郎に何度もぶつけた。それでも姉さんと後ろをついてくる無一郎に安心感を抱いていたのかもしれない。


「無一郎の無は無意味の無」


ああ、違う。違うの無一郎。そんなこと、一度だって思ったことない。

訪ねてきてくださったあまね様を追い返したのだって全部無一郎を守りたかっただけ。始まりの呼吸を使う剣士の子孫だと聞いた無一郎の目が輝いていて、いけないと思ったから。だって無一郎はきっと剣士になろうと思ってしまう。案の定その夜無一郎は剣士になって鬼に苦しめられている人々を助けようと提案してきた。嬉しそうに笑顔で語る無一郎に私はぷつんと頭の中で何かが切れる音がしたのを覚えている。正直そのあと無一郎になんと怒鳴ったかは曖昧だった。気づいたときには無一郎が唇を噛みしめて俯いていて、私はどんな声をかけていいかわからずそのまま夕ご飯の支度を続ける。それからだ。無一郎と会話をしなくなったのは。意地の張り合いに近かったように思う。冷静になって無一郎にかけた言葉を少しずつ思い出した私は自分の言ったことが正論だと疑わなかったし、無一郎もきっと私と同じ気持ちだったに違いない。


「無一郎に近づくなっ!」


蝉のうるさい夏のことだった。夜、戸を開けっ放しにして寝ていたら鬼が来た。戸に近い場所で寝ていたのは私だったから、とにかく無一郎を守ろうと襲ってくる鬼に近くにあった斧で抵抗した。敵うはずもなく斧ごと私の左腕は鬼によって文字通り吹き飛ばされ、痛みでその場に蹲る。ぼたぼたと流れる血が自分のものだなんて思えなくて、過呼吸になりかけながらも私は姉さん! と抱きしめてくれた無一郎の温もりを心地よく感じた。いてもいなくても変わらないつまらない命だと鬼は言った。たしかに私の命なんてつまらない命かもしれない。だけど無一郎の命は違う。無一郎の命は守らなくちゃいけないもので、大切なものなのだ。心優しい無一郎と私を一緒にするな。


「……け……て……助けて……ください……」


神や仏に願ったところで何も変わらない。もしいたのならば母や父は死ななかったはずだし、鬼なんてものも存在しなかった。都合の良いときだけ頼るのは人間の悪いところだ。わかっていてもその神や仏に願わずにはいられなかった。

無一郎は優しい子なの。悪いのは私。だから私はどうなってもいい。無一郎だけは助けてください。


「無一郎の無は……無限の無」


意識が朦朧として目の前は涙で滲み見えなかった。だが意識がなくなる寸前感じた右手の温もりを、私は忘れないだろう。


「大好きよ、無一郎」







まさかの三年が経っていた。

私はつい先日この蝶屋敷で目を覚ました。どうやら私は鬼に襲われたもののなんとか一命をとりとめたらしく、あの日からずっと眠り続けていたらしい。起きたときにたまたまそばにいてくれたアオイさんがこの蝶屋敷の主、しのぶ様を呼んでくれて彼女が色々とお話をしてくださった。無一郎も助かったと聞き安心したけれど、弟はショックから記憶をなくし私のことも忘れているという。左腕がなくなっていることよりも私を忘れてしまったという事実が悲しくて私は静かに涙を流した。

未だに立ち上がることはできないが、声も出せるようになり食べ物も口にできるようになったころ私の部屋に慌ててやって来たのはなほさんだ。三つ編みを大きく揺らし、息を切らせながら「霞柱様が……!」と何かを必死に伝えようとしてくれる。霞柱が無一郎のことだというのはすぐにわかったが、それと彼女が慌てる理由と関係あるのだろうか。落ち着いたなほさんが教えてくれたのは、無一郎が鬼との戦闘で重傷を負いこの蝶屋敷で眠っているということだった。目を見開いてバクバクと心臓がうるさくなるのがわかる。震える声で無一郎が無事なのかを尋ねれば、「それは大丈夫です……!」と頷かれ安堵したものだ。

無一郎が無事ならばよかった。これまでも軽傷で蝶屋敷へ何度か足を運んでいるのは知っていたし、例え無一郎が私のことを覚えていなくても私は覚えている。もう少し体がよくなって、リハビリで歩けるまでに回復したらこの目で成長した無一郎を見に行こう。目標があればきっと回復も早いはずだ。

などと考えていたのが三日前のことである。


「なまえっ!!」


そして三日後、私の部屋へやってきたのは回復したら顔を見ようと思っていた無一郎だった。私の覚悟も目標もすべて無駄になった瞬間である。背は……少し高くなったかな。声変わりはしたのかも。黒い隊服もきちんと彼に似合っているし、ってあれ。


「え、む、いちろう」


無一郎? え? なんで?

隊服を身にまとっていることから体のほうはもう大丈夫なのだろう。重傷と言われていたはずなのだが、治りが早すぎでは。それよりもだ。なぜ無一郎が私の名前を呼んで目の前にいる? ぱくぱくと口を開閉させていれば突如私を襲ったのは苦しさと温かさだった。無一郎に……抱きしめられている。


「無一郎……無一郎なの?」
「うん……! うん、そうだよなまえ……っ、弟の、無一郎だよ……ごめん、ごめんね、なまえ……!」
「どうして謝るの無一郎……謝るのは私のほうなのに」


自分が思っていたよりも私は無一郎に会いたかったらしい。二人して部屋でわんわん泣いていれば、泣き声に駆けつけてくれたしのぶ様ともう一人の柱――蜜璃様がいつの間にか微笑ましい表情でこちらを見つめていた。

上弦……強いらしい鬼と戦った無一郎は、色々あり記憶を取り戻したらしい。私としてはその色々の部分が知りたかったのだけれど、鬼殺隊について何の知識もない私が知っても仕方がないか。どんなきっかけがあれど、無一郎は記憶を取り戻し、私のことを思い出してくれたのだ。こんな幸せなことはない。


「ねえ聞いてなまえ。話したいことがたくさんあるんだ。そうだ、父さんと同じ言葉をかけてくれた炭治郎って隊士がいてね」
「落ち着いて無一郎くん。時間はあるんだから、ゆっくり。ね?」


蜜璃様の宥める声に頷いた無一郎がはっとした顔をして私の右手を握った。呆けた顔をしているであろう私に無一郎は微笑んで言うのだ。


「おはようなまえ。僕も大好きだよ」


目を丸くして見上げる私の顔はきっと酷いことになっていたと思う。眠り続ける前、無一郎にかけた言葉の返事をもらえて止まったはずの涙で視界がぼやけた。

私だって大好きだ。







ふうふうと湯気の出るおいしそうなお粥に息を吹きかけ口に含めば、卵も入れてくれていたらしくふわふわとした食感に口元が緩んだ。耳を澄ませば聞こえる静かな足音にクスクスと笑みがこぼれる。


「なまえ、大丈夫?」
「大丈夫。どこも痛くないよ」


黒い服に身を包んだ無一郎がひょこりと部屋に顔を出しよかったと微笑んだ。再会から頑張って暇を見つけては私の病室に足を運ぶ無一郎に、さすがのしのぶ様も呆れ顔だった。それでも「お姉さんと一緒にいられるのは素敵なことですよ」と無一郎にどこか寂しそうに笑いかけていたことを私は忘れないだろう。ぼうっとしていた私を気遣ってか心配そうに顔を覗き込んできた無一郎を安心させるべく目を細めた。


「今日はね、なまえに会わせたい人がいるんだよ」
「私に……?」
「うん。ね、入って」


食べかけのお粥をそのままに扉のほうを見つめれば、赤みがかった髪が一番に目に飛び込んできた。緑と黒の市松模様の羽織を着た少年は無一郎と同じような黒い服を着ていて、ああこの人もきっと鬼殺隊の人なのだろうと察する。緊張した様子でこんにちはと頭を下げた彼に私も同じ言葉を返した。


「竈門炭治郎といいます」
「……あっ!」


――父さんと同じ言葉をかけてくれた炭治郎って隊士がいてね

前に無一郎が言っていたことを思い出して右手で口元を覆う。炭治郎さんがきっかけとなって無一郎が記憶を取り戻したのだ。そのことでお礼を伝えれば炭治郎さんは慌てたように首をぶんぶんと大きく振った。


「俺は何もしてないです! きっかけは俺じゃなくてきっと小鉄くんだし、それに……時透くん自身でなんとかしたことですよ」


なんて優しい人なんだろう。雰囲気が父と重なって見えて少しだけ泣きそうになってしまった。そのあとは私も自己紹介して、彼のほうが年上なのだからという理由で敬語もなくしてもらう。そして私にも炭治郎と呼ぶことを許可してくれた。ずっと山奥で暮らし、生きることに精一杯だった私に無一郎以外の同年代の子とたくさんおしゃべりする日が来るなんて想像もしていなかった。炭治郎とたくさんお話をする中で、無一郎はにこにことそばで見守っている。すっかり冷めたお粥に気づいたのは、お皿を下げにきてくれたアオイさんに指摘されてからだった。







「いのすけ、いのすけっ」
「"いのすけ"じゃないよ、禰豆子」
「いいこ、ねえ。がんばってる。えらい。ふふふ」
「ありがとう」


あれから炭治郎に禰豆子を紹介してもらった私は、遊びにやってくる鬼の少女とよく一緒にいた。今日は禰豆子だけではなく、大丈夫? と聞きながらこの部屋に足を運んだ無一郎もいる。見知らぬ名前を呼びながら頭をずいずいと差し出してくる禰豆子の頭を右手で撫でながら、羨ましそうな視線を投げてくる無一郎の髪に触れようとした。そこで自分の左腕がなくなっていることを思い出して思わず撫でる手を止めて左腕があった場所を見つめてしまう。


「いのすけ?」


きょとりとした表情で私ではない名前を口にする禰豆子に我に返った。無一郎が怯えたように表情を歪めているのが視界に入った私は彼の頬に右手を滑らせる。大げさなほどに震えた無一郎の体に私の目を見るよう声をかけた。


「無一郎。この腕がなくなったのは無一郎のせいじゃない。あのとき家に来た鬼のせい。もっと言うなら、戸を開けっ放しにした私のせい」
「違う、違う。僕のせいだ。だって、それを言うならあのとき暑いからっていう理由で勝手に戸を開けたのは僕で」
「無一郎を守るために失った左腕だもの。ある意味勲章だよ」


唇を噛みしめてまだごめんと謝ってくる無一郎の胸に頭を預ける。本当に優しい子。私という姉の記憶を取り戻してからずっと後悔していたのだろう。自分のせいで左腕を失わせてしまったと思い込んで悩み続けていたのだろう。


「私は微塵も思っていないけど、もし自分のせいだと思うなら、無一郎が私の左腕になって。ずっと一緒にいて、私を置いていかないで」


だけど、ごめんね無一郎。私ね、あなたの記憶から私がいなくなったと知ったとき本当にすごくショックだったの。もう二度と忘れてほしくなんかない。もうこれ以上遠いところにいかないでほしい。例え後悔だとしても、私への気持ちが無一郎の中にあるという事実だけで嬉しくなってしまうの。双子とはいえ嫌な姉だよね。


「置いてなんて、いかない。僕がなまえの左腕になるよ」


気づいていないふりをしているだけで無一郎が「姉さん」と呼んでくれなくなったことを知っている。意図してなのか無意識なのかは彼にしかわからないけれど、それでも無一郎に名を呼ばれるのは安心した。無一郎を後悔で縛り付けてでも一緒にいたい、なんて。こんなぐちゃぐちゃで醜い気持ちは、悟らせちゃいけない。

息ができなくなるくらい抱きしめてくる無一郎に私も右手を回す。早くまた撫でてよとでも言いたげに服を引っ張ってくる禰豆子がいてくれてよかった。彼女がいなければこの醜い思いを伝えてしまっていたかもしれないから。


「大好きよ、無一郎」
「大好きだよ、なまえ」


無一郎。大切な弟。私もあなたを一人にしないから、あなたも私を一人にしないでね。



永遠の夜のなかで眠るように沈みたい



戻る